「親と子」について
若輩者の私にはまだ語れるようなお題ではないし、まだまだ論じれるだけの人生を歩んではいないのだが、もうすぐ人の親になるので、その前にどうしても考えておく必要があると感じ、今回は簡単に自分の考えを整理してみたいと思った。
学校で歴史を教えることの意味も本来は、今日まで何が起きて来たってことばかりをただただ覚えさせるんじゃなくて、連綿と続く命の流れの末端にあなたたちはいるのだからって前提がある方がより意義深いものに感じると思うのだがどうだろう。
織田信長の子孫だと言われているスケーターの彼は、たまたま歴史に名を残す偉人の子孫だったわけだが、少なくとも彼にとって安土桃山時代は他人事ではない。
本能寺で信長は死んでしまったとは言え、織田家はその後も歴史と共に歩んで来たのである。
ルーツの一端が明確という稀なケースではあるが、彼よりさらに遡ることが出来る血筋と言えば、やはり天皇家だろう。
私も勉強をしたわけではないが、飛鳥奈良時代頃から代々続いているはずで、さらには日本の象徴的存在なのだから、日本の歴史と共に歩まれて来た血筋である。
自分のルーツなんて遡っても大抵の場合は江戸時代辺りまでしか分からないだろうし、もしかしたら明治大正で止まってしまうかもしれない。
前述したような例は稀である。
しかし、今の自分の存在は、そのルーツ無くしては有り得ないということが唯一無二の事実。
つまり、江戸時代にも私の先祖はどこかで生きていたし、平安時代にも暮らしていたのだ。
私の無数にのぼる祖先たちが、絞りに絞って誕生したのが私である。もしくは私を含めた兄弟たちである。
そう考えると、自分の価値に気付きはしないだろうか。
祖先たちが子孫にどんな期待をして来たのかは分からないが、現状が期待通りなわけはないだろう。
ただ、私は祖先の期待の一つには応えられたと思う。
それは先に述べた通り、もうすぐ人の親になるってことだ。
祖先が子孫に託す期待の一番は、やはり繁栄であろう。
絶やさぬことこそが動物の本能であるならば、悪い言い方ではあるが、これに応えぬのは祖先を冒涜していると言っても過言ではないだろう。
私で終わりにするために、私を生んだわけではないはずなのだ。
子に幸せを願い、またその子にも幸せを願う。
そんな願いを背負って生まれて来た私たちは、その重さに気付いてはいない。
しかし、親祖先は不幸を願ってはいなかったはずである。
ならば自分なりに幸せを感じる生き方をしなくてはならない。
親が子を思う気持ち、それは祖父母が両親を思う気持ちであり、その上の祖先もまた然り。不変のものである。
我が子のために命を投げ出す親がいる。しかし、その親のためなら命を投げ出せる親がまたいる。
みな平等に大切な命のはずなのに、子を守るための本能なのか、人はそのためなら死を選択することさえ厭わない。
親の愛とは本能にも根付いているのだろうが、頭が下がるほどに大切なものだと思う。
彼らがいて、私が居り、また彼らは私に見返りを求めるわけではなく、ただただ私を心配に思う。
この当たり前に対して何が出来るのか。
子を宿してくれた妻に対してもそうであるが、私がこれからすべきことは恩返しなのだろう。
命のバトンは一先ず繋いだ。
次はそのバトンの行き先を守りながら、私は自分の過去に対して感謝の意を体現していかなくてはならない。
親になった瞬間から、私は子から大人になったのだ。
その自覚の第一歩として、この記事を残す。
それでは、みなさまお休みなさい。
学校で歴史を教えることの意味も本来は、今日まで何が起きて来たってことばかりをただただ覚えさせるんじゃなくて、連綿と続く命の流れの末端にあなたたちはいるのだからって前提がある方がより意義深いものに感じると思うのだがどうだろう。
織田信長の子孫だと言われているスケーターの彼は、たまたま歴史に名を残す偉人の子孫だったわけだが、少なくとも彼にとって安土桃山時代は他人事ではない。
本能寺で信長は死んでしまったとは言え、織田家はその後も歴史と共に歩んで来たのである。
ルーツの一端が明確という稀なケースではあるが、彼よりさらに遡ることが出来る血筋と言えば、やはり天皇家だろう。
私も勉強をしたわけではないが、飛鳥奈良時代頃から代々続いているはずで、さらには日本の象徴的存在なのだから、日本の歴史と共に歩まれて来た血筋である。
自分のルーツなんて遡っても大抵の場合は江戸時代辺りまでしか分からないだろうし、もしかしたら明治大正で止まってしまうかもしれない。
前述したような例は稀である。
しかし、今の自分の存在は、そのルーツ無くしては有り得ないということが唯一無二の事実。
つまり、江戸時代にも私の先祖はどこかで生きていたし、平安時代にも暮らしていたのだ。
私の無数にのぼる祖先たちが、絞りに絞って誕生したのが私である。もしくは私を含めた兄弟たちである。
そう考えると、自分の価値に気付きはしないだろうか。
祖先たちが子孫にどんな期待をして来たのかは分からないが、現状が期待通りなわけはないだろう。
ただ、私は祖先の期待の一つには応えられたと思う。
それは先に述べた通り、もうすぐ人の親になるってことだ。
祖先が子孫に託す期待の一番は、やはり繁栄であろう。
絶やさぬことこそが動物の本能であるならば、悪い言い方ではあるが、これに応えぬのは祖先を冒涜していると言っても過言ではないだろう。
私で終わりにするために、私を生んだわけではないはずなのだ。
子に幸せを願い、またその子にも幸せを願う。
そんな願いを背負って生まれて来た私たちは、その重さに気付いてはいない。
しかし、親祖先は不幸を願ってはいなかったはずである。
ならば自分なりに幸せを感じる生き方をしなくてはならない。
親が子を思う気持ち、それは祖父母が両親を思う気持ちであり、その上の祖先もまた然り。不変のものである。
我が子のために命を投げ出す親がいる。しかし、その親のためなら命を投げ出せる親がまたいる。
みな平等に大切な命のはずなのに、子を守るための本能なのか、人はそのためなら死を選択することさえ厭わない。
親の愛とは本能にも根付いているのだろうが、頭が下がるほどに大切なものだと思う。
彼らがいて、私が居り、また彼らは私に見返りを求めるわけではなく、ただただ私を心配に思う。
この当たり前に対して何が出来るのか。
子を宿してくれた妻に対してもそうであるが、私がこれからすべきことは恩返しなのだろう。
命のバトンは一先ず繋いだ。
次はそのバトンの行き先を守りながら、私は自分の過去に対して感謝の意を体現していかなくてはならない。
親になった瞬間から、私は子から大人になったのだ。
その自覚の第一歩として、この記事を残す。
それでは、みなさまお休みなさい。
「カリスマとオリジナル」について
人にないものを持っている人ってのは、魅力的に感じるもので、死語になりつつあるが、カリスマ○○なんてのはその代表なんでしょうね。
そんな人たちと会ったことはないので、実際の雰囲気とか、風格とか知らないけれど、友人とかにも雰囲気のあるやつ、なんか知らんけど人に懐かれたり、慕われたりするやつってのはいる気がします。
愛想や愛嬌ではない何か。
それって才能なのか?
それとも磨かれた感性?
どちらにしても、かの発明王と呼ばれたエジソンが言ったように、才能だけでは底が浅く、それを99%の努力で補ってこその天才=カリスマなんでしょう。
とかく変人と呼ばれる人々には、何かしらの魅力が備わっていて、それの活かし方も知っている。
そこから生み出たものは、他とは違う輝きを放ち、遅かれ早かれ称賛されたりもする。
魅せられるものとは、普通じゃないアブノーマルな人たちの作品ってことかもしれない。
と結論づけたものの、じゃあ一般人には魅力的な作品を作り上げるとか、その人自体が魅力的になれないのかと言うとそうじゃないのが事実。
熱心になってることをしている時とか、いわゆるその道のプロとかはその瞬間に輝くし、それって俗に言うカリスマとは違う。
また、ファッションでよく言う個性的ってのは、自分の魅力を引き出す手法やと思うし、等身大を分かっている人やから出来ることじゃないかと思う。
背伸びをせずに、自己観察と他人観察が出来る人は、一線を画せるポイントに気付くのかもしれない。
その一線の先にあるのが、オリジナリティってことか。
個人においても企業においてもオリジナリティは大切な要素だと思う。
でも、オリジナルって言っても無から有を作り上げるなんてことは稀であり、実際は既成の事実と事実を組み合わせたり、発想の転換てな具合に生み出されるもので、既存のものとは少し違いますよくらいの感じであろう。
そのアイデアが斬新であればあるほど、魅力を備え、まるで他にないもののような印象を与える。
そして、それが狙いと言える。
またチャンスを掴むのと似た感じで、常にそのことに対するアンテナを張っているからこそ、アイデアも生まれる。
フェラーリのデザインなんかは一度却下された後、残り十五分で生まれたらしい。
熟考して生み出されるのではなく、集大成として閃く。
これこそがオリジナリティだと思う。
常にそれを追求していく中で、人は独創性を磨き、そこから雰囲気が生まれ、そこに憧憬するような人が集まればカリスマとなる。
これはやはり既述の論である、1%の才能と99%の努力が天才を生むと同じだ。
オリジナルの追求こそがカリスマを生み出す。
カリスマになりたいとは思わないが、私自身は自分らしさ、俺にしか出来ないことは何かを考え、いまだ何も思いつかないでいる。
まだまだ弱い個性でしかない私の作品たちに、いつかオリジナルを吹き込めるように努力する。
曇り空の日曜日、みなさまはいかがお過ごしされるのだろう。
そんな人たちと会ったことはないので、実際の雰囲気とか、風格とか知らないけれど、友人とかにも雰囲気のあるやつ、なんか知らんけど人に懐かれたり、慕われたりするやつってのはいる気がします。
愛想や愛嬌ではない何か。
それって才能なのか?
それとも磨かれた感性?
どちらにしても、かの発明王と呼ばれたエジソンが言ったように、才能だけでは底が浅く、それを99%の努力で補ってこその天才=カリスマなんでしょう。
とかく変人と呼ばれる人々には、何かしらの魅力が備わっていて、それの活かし方も知っている。
そこから生み出たものは、他とは違う輝きを放ち、遅かれ早かれ称賛されたりもする。
魅せられるものとは、普通じゃないアブノーマルな人たちの作品ってことかもしれない。
と結論づけたものの、じゃあ一般人には魅力的な作品を作り上げるとか、その人自体が魅力的になれないのかと言うとそうじゃないのが事実。
熱心になってることをしている時とか、いわゆるその道のプロとかはその瞬間に輝くし、それって俗に言うカリスマとは違う。
また、ファッションでよく言う個性的ってのは、自分の魅力を引き出す手法やと思うし、等身大を分かっている人やから出来ることじゃないかと思う。
背伸びをせずに、自己観察と他人観察が出来る人は、一線を画せるポイントに気付くのかもしれない。
その一線の先にあるのが、オリジナリティってことか。
個人においても企業においてもオリジナリティは大切な要素だと思う。
でも、オリジナルって言っても無から有を作り上げるなんてことは稀であり、実際は既成の事実と事実を組み合わせたり、発想の転換てな具合に生み出されるもので、既存のものとは少し違いますよくらいの感じであろう。
そのアイデアが斬新であればあるほど、魅力を備え、まるで他にないもののような印象を与える。
そして、それが狙いと言える。
またチャンスを掴むのと似た感じで、常にそのことに対するアンテナを張っているからこそ、アイデアも生まれる。
フェラーリのデザインなんかは一度却下された後、残り十五分で生まれたらしい。
熟考して生み出されるのではなく、集大成として閃く。
これこそがオリジナリティだと思う。
常にそれを追求していく中で、人は独創性を磨き、そこから雰囲気が生まれ、そこに憧憬するような人が集まればカリスマとなる。
これはやはり既述の論である、1%の才能と99%の努力が天才を生むと同じだ。
オリジナルの追求こそがカリスマを生み出す。
カリスマになりたいとは思わないが、私自身は自分らしさ、俺にしか出来ないことは何かを考え、いまだ何も思いつかないでいる。
まだまだ弱い個性でしかない私の作品たちに、いつかオリジナルを吹き込めるように努力する。
曇り空の日曜日、みなさまはいかがお過ごしされるのだろう。
「読書と音楽」について
まとわりつくような湿った空気の中で目が覚めた。
よほど寝苦しかったのだろう、体中にべっとりと汗をかいている。
まだはっきりしない意識の中で、強い雨音が耳につく。
窓は閉まっている。
隣のビニールハウスに当たる雨音は、実際の降り具合よりも強い雨を思わせる。
不快な音だ。
耳障りな音と、梅雨のじめじめした蒸し暑さにたまらず起き上がり、窓辺に寄る。
クーラーをオンにし、カーテンの隙間から外を見た。
いまいましいビニールハウスが見える。
昼間は太陽を反射して、一階のリビングはサウナ状態になる。
その存在自体が訴訟沙汰レベルの迷惑行為とさえ思える。
そんなことを考えながらふとビニールハウスの向こう側の住宅地へ目をやると、一台の車が止まっていた。
運転席側のドアの横に人が立っている。
女のように見える。
こんな雨の中、傘も差ささずに外に出るのは異常だ。
喧嘩でもしたのだろうか。
しばらくすると、女は立ち去ってしまった。
車から人が降りてくる気配はない。
ヘッドライトは消えているので、ほとんど見えないが、エンジンはついているようだ。
まったくこんな夜中に何をしているんだろうか。
その内、今度は傘を差して女がやって来た。
先ほどの女だろうか。
いったい何が起きているのか気になる。
私は、少し弱まった雨音の向こうに耳を傾けてみた。
と、物語のような始まり方をしてみる。
私は幼い頃から絵を描くのが好きで、小中高と漫画を描いていた。
高校生になってからは、漫画と共に小説なんかも書き出して、とにかく想像を具現化することが楽しくて仕方なかったのである。
しかし、当時の私は読書は好きではなかった。
現在のように活字に抵抗がなくなったのは、22~23歳の頃だと思う。
とある知り合いから、一冊の小説を勧められたのがきっかけで、小説にどっぷりつかってしまったのである。
その時に勧められたのがこちら↓
正直、小説初心者が読むような本ではないかもしれないが、今年ようやくドラマ化されたこの作品。
実に面白い。
舞台は中国(当時の清)、時代は清末期、まさに鎖国の清が滅びようとしているその混乱を極めた時代の物語である。
清の独自の文化に驚き、浅田先生の舌を巻くような文章にのめり込み、その技術に泪する、まさに超大作である。
あ、ちなみにこの小説は全四冊からなる長編もので、中身がとにかく濃い。
以来、私は浅田先生の作品にはまり、本屋さんで買い漁る時期が続いた。
浅田先生の作品は、どれもが面白い。
そして、男が泣ける切なさがある。
さすがにわぁわぁ泣いたことはないが、泪ポロポロと止まらなかった作品もある。
自分と重ね合わせるから泣けるとは違う感覚で、単純に悲しかったり、切なかったり、辛かったりするのだ。
私が入り込むタイプなだけなのかもしれないが、相当に面白いので、周りの方たちには一回は読んでほしいと宣伝している。
ちなみに浅田先生は「鉄道員」、「壬生義士伝」などメディアにもたくさん取り上げられているので、むしろご存知の方が多いかもしれない。
さて、そんな浅田先生の小説大好きな私が同じくらいに大好きなものが音楽である。
音楽について長く語ることは今回は避けようと思うが、音楽は人生に欠かせない。
私の場合は、聴く音楽ではなくて、演奏する方の音楽が好きである。
若くからギターを弾いているが、ステージの楽しさはいつでも快感である。
ゆずから始めたアコースティックも、いつしかブルーグラスというアメリカの音楽ジャンルにはまり、最高のギタリストの一人、Doc Watsonと巡り逢えた。
私が敬愛しているギタリストである。
ネット上でのハンドルネームには彼の名前を使用することが多々ある。
むしろ私がdocとなっているわけであるが、本物はまじですごい。
もう80歳くらいのおじいちゃんとは言え、遜色ないと思われる。
あまりに憧れて、彼のシグネイチャーモデルのギターを買ってしまったほどなのだ。
値段は言えないが、そこそこした。
しかし、その音色たるや、びっくりするぐらいに美しい。
しかも、私の手にフィットする。
手の小さい日本人の中でも手が小さい私がなぜフィットするのかはわからないが、これはきっと思い込みの力なのだろう。
まぁ、ギターやDocについてはまたいづれ語る機会を作るということで、今夜は寝よう。
みなさま、おやすみなさい。
よほど寝苦しかったのだろう、体中にべっとりと汗をかいている。
まだはっきりしない意識の中で、強い雨音が耳につく。
窓は閉まっている。
隣のビニールハウスに当たる雨音は、実際の降り具合よりも強い雨を思わせる。
不快な音だ。
耳障りな音と、梅雨のじめじめした蒸し暑さにたまらず起き上がり、窓辺に寄る。
クーラーをオンにし、カーテンの隙間から外を見た。
いまいましいビニールハウスが見える。
昼間は太陽を反射して、一階のリビングはサウナ状態になる。
その存在自体が訴訟沙汰レベルの迷惑行為とさえ思える。
そんなことを考えながらふとビニールハウスの向こう側の住宅地へ目をやると、一台の車が止まっていた。
運転席側のドアの横に人が立っている。
女のように見える。
こんな雨の中、傘も差ささずに外に出るのは異常だ。
喧嘩でもしたのだろうか。
しばらくすると、女は立ち去ってしまった。
車から人が降りてくる気配はない。
ヘッドライトは消えているので、ほとんど見えないが、エンジンはついているようだ。
まったくこんな夜中に何をしているんだろうか。
その内、今度は傘を差して女がやって来た。
先ほどの女だろうか。
いったい何が起きているのか気になる。
私は、少し弱まった雨音の向こうに耳を傾けてみた。
と、物語のような始まり方をしてみる。
私は幼い頃から絵を描くのが好きで、小中高と漫画を描いていた。
高校生になってからは、漫画と共に小説なんかも書き出して、とにかく想像を具現化することが楽しくて仕方なかったのである。
しかし、当時の私は読書は好きではなかった。
現在のように活字に抵抗がなくなったのは、22~23歳の頃だと思う。
とある知り合いから、一冊の小説を勧められたのがきっかけで、小説にどっぷりつかってしまったのである。
その時に勧められたのがこちら↓
- 蒼穹の昴(1) (講談社文庫)/浅田 次郎
- ¥660
- Amazon.co.jp
正直、小説初心者が読むような本ではないかもしれないが、今年ようやくドラマ化されたこの作品。
実に面白い。
舞台は中国(当時の清)、時代は清末期、まさに鎖国の清が滅びようとしているその混乱を極めた時代の物語である。
清の独自の文化に驚き、浅田先生の舌を巻くような文章にのめり込み、その技術に泪する、まさに超大作である。
あ、ちなみにこの小説は全四冊からなる長編もので、中身がとにかく濃い。
以来、私は浅田先生の作品にはまり、本屋さんで買い漁る時期が続いた。
浅田先生の作品は、どれもが面白い。
そして、男が泣ける切なさがある。
さすがにわぁわぁ泣いたことはないが、泪ポロポロと止まらなかった作品もある。
自分と重ね合わせるから泣けるとは違う感覚で、単純に悲しかったり、切なかったり、辛かったりするのだ。
私が入り込むタイプなだけなのかもしれないが、相当に面白いので、周りの方たちには一回は読んでほしいと宣伝している。
ちなみに浅田先生は「鉄道員」、「壬生義士伝」などメディアにもたくさん取り上げられているので、むしろご存知の方が多いかもしれない。
さて、そんな浅田先生の小説大好きな私が同じくらいに大好きなものが音楽である。
音楽について長く語ることは今回は避けようと思うが、音楽は人生に欠かせない。
私の場合は、聴く音楽ではなくて、演奏する方の音楽が好きである。
若くからギターを弾いているが、ステージの楽しさはいつでも快感である。
ゆずから始めたアコースティックも、いつしかブルーグラスというアメリカの音楽ジャンルにはまり、最高のギタリストの一人、Doc Watsonと巡り逢えた。
私が敬愛しているギタリストである。
ネット上でのハンドルネームには彼の名前を使用することが多々ある。
むしろ私がdocとなっているわけであるが、本物はまじですごい。
もう80歳くらいのおじいちゃんとは言え、遜色ないと思われる。
あまりに憧れて、彼のシグネイチャーモデルのギターを買ってしまったほどなのだ。
値段は言えないが、そこそこした。
しかし、その音色たるや、びっくりするぐらいに美しい。
しかも、私の手にフィットする。
手の小さい日本人の中でも手が小さい私がなぜフィットするのかはわからないが、これはきっと思い込みの力なのだろう。
まぁ、ギターやDocについてはまたいづれ語る機会を作るということで、今夜は寝よう。
みなさま、おやすみなさい。