中之島ブルースという三幕の芝居は、哲学者であり応用倫理学者である加藤尚武氏が30年以上も前に書かれたものである。その「環境倫理学のすすめ」(丸善ライブラリー)第2章「中之島ブルースまたは人間に対する自然の権利」から引用したもの。

 

    

                   加藤尚武教授

前回は中之島ブルースという三幕の芝居を紹介したが、加藤尚武氏によるその物語の解説が次のように続く。

(承前)

この中之島ブルースの物語に含まれる自然保護の三段階は次のように定式化することができる。 ここでは「種の破壊が許されない」というときには、絶対に許されないという意味である。

第一の段階では、人間個体の生存のためだけではなく、個人の生命の質(快楽)のためにも種の破壊が許される。

第二の段階では、人間個体生存のためなら種の破壊も許されたのだろうが、生命の質のための種の破壊は許されない。

第三の段階では、生命の質のためは言うにおよばず、人間個体の生存のためであっても、種の破壊は許されない。しかし、人間の種の生存のためであるならば、他の生物の種の破壊もやむをえない。

ここでは「種の破壊」が問題になっているが、この言葉を「自然生物の利用」と置き換えても、ある基準ができる。ここでは「自然生物の利用が許される」というのは「種の絶滅の危険を犯さない限度内で許される」という意味である。

第一の段階では、人間個体の生存のためだけではなく、生命の質のためにも、自然生物の利用が許される。

第二の段階では、人間個体生存のためなら自然生物の利用が許されるが、生命の質のための自然生物の利用は許されない。

第三の段階では、生命の質のためは言うにおよばず、人間個体の生存のためであっても、自然生物の利用は許されない。しかし、人間の種の生存のためであるならば、他の自然生物の利用もやむをえない。 

趣味的な狩猟、毛皮を採るために野生動物を射殺する、装飾品をつくるために野生の亀を捕獲するというのは、第一段階でのみ許されるような自然破壊である。鯨を食用にするために捕獲することは、第一段階なら許される。 第二段階になると、鯨が絶滅の危険をもっており、日本人が鯨を食べないと生きて行けないというわけではないのだから、日本の捕鯨は許されない。 第三段階になると、たとえ日本人が餓死するような事態であっても、鯨が絶滅の危険をもつ以上は捕獲してはならない。

しかし、趣味や贅沢のための自然利用と、生活のための自然利用とを区別した方が、実際的だろう。さもないと狩猟民や漁民の生活が全面的に否定されるということになりかねない。

すると自然利用の目的には、①趣味や贅沢のための利用、②生活のための利用、③個人の生存のための利用、④人類の存続のための利用、という段階があることになる。

これまでの考え方では、どの段階の利用も「万物の霊長」である人間の尊厳の名のもとに許されてきた。これからは無条件の利用が許されるのは、④人類の存続のための利用だけである、という方向に世界の世論が進んでいくだろう。

世界の世論は原則として第一の基準は否定して第二の基準と第三の基準の中間あたりを動いている。欧米の自然保護思想には、比較的基準の意識がはっきりしている。

「絶滅のおそれのある自然生物を趣味や贅沢のために利用してはならない」という基準はかなり多くの人がすでに受け入れている。そのために毛皮のコートを買うことを断念する人もいる。日本ではどの基準で自然保護を主張するのかがはっきりしない。

欧米では、保護の対象を種に置く思想が中心になっている。これは、種とは神によってつくられたもので人間に破壊する権利がないという考え方と結びついている。キリスト教を背景にしない場合にも、種の貴重さが強調される。つまり、一つの種ができるためには、非常に複雑な条件が必要で、一度絶滅した種を復元することは不可能である。したがって種の存続は不可逆的であって、絶滅させることはたやすいが、再生することは不可能である。ある特定の種が、どのような有用性をもっているかは、現在ではまだわからない。だから未来世代に利用の可能性を残すために種は生物情報の集積体として保存されなければならない。

チンパンジー、イルカ、クジラなどの知能の高い生物を保護せよとか、サル、ウサギ、モルモットなど痛みの感覚をもつ動物を過酷な実験から解放せよという主張では、個体としての保護が問題になっているが、これは価値の原点を苦痛の回避、快楽の追求におく功利主義の考え方ともつながっている。また生命の霊魂の可能性と考えて、知能の高い動物を守れと主張する立場もある。

これに対して「一木一草に仏性あり」という仏教の立場では、生命をもつあらゆる個体に掛替えのない尊厳があるという立場である。ここでは知能が高いとか、快苦の感情をもつとかいう条件は考えられていない。蚊を殺さないように気を使うジャイナ教徒、昆虫類の駆除をしなかったために妊婦の死亡率が異常に高かったシュヴァイツァー病院のような例もある。

保護の対象となる自然物を規定するには、①絶滅の可能性のある動植物の種、②知能の高い動物個体、③快苦を感じる動物個体、④生命をもつすべての個体、という考え方がある。

このなかで「人間のために絶滅の危険にひんしている動植物の種を保護することは人間の完全義務である」という考え方が、世界の主流になって行くと思われる。

根本的な問題は、「自然保護は人間という種の保存のための手段である」と考えるか、「自然を保護するのは、人間という種のエゴイズムを守る手段として考えてはいけない。人間にとっての利益を離れて自然そのものを保護に値するものとして扱わなくてはならない」と考えるかどちらかということである。人間中心主義か、自然中心主義か。

これに対して、絶滅の危険のある種を保護することは間接的には人類を保護することになるのであり、人間中心主義と自然中心主義とは、両立可能であって、矛盾するものではないと主張する総合論の立場がある。私はこれを「カナリア主義」と呼んだ(拙著『バイオエシックスとは何か』未来社参照)ことがある。すなわち炭坑で空気の状態が人間にとって、危険かどうかテストするためにカナリアを使うという例に似ている。一緒にいるカナリアが絶対に死なないように作業を進めていれば人間も安全である。

ところがこの立場では、中之島三郎という個体の生存とナカノシマ・ペリカンという種の生存とが、「あれか、これか」の関係になったときに、どちらにするかという結論が出ない。人間が人間の個体よりも生物種の存続の方が上位に立つという原理を認めるかどうか。

当面、人類に課せられているのは、このような「あれか、これか」の関係にならないように 配慮するということである。

私がナカノシマ・ペリカンの話を考えついたのは、大阪の中之島にある日本生命研修所で開かれた「生命倫理学会」のときのことだった。「種の保護のために人間の個体が犠牲になる可能性」というショッキングな話題をユーモアにくるんで提出するのにSF調の漫談をすることにした。

 

その話の最後の部分は、遺族が補償を求めて世界自然保護局を訴えて敗訴したという話になっていた。もちろん遺族は判決に満足しないで控訴した。そして次のような逆転判決を得た。

「自然の生物種を保護すべき完全義務を人類が負うという原則は否定すべくもないが、しかし、その実施にあたっては、人間個体の生存と〈あれか、これか〉の関係にならないようにする配慮が必要である。ペリカンの捕獲装置をロックし暗証番号を付する際に、もしかして飢えた人間がそれを求めた時の代替の食糧をそこに置くのは当然の措置なのであって、それを怠ったために中之島三郎氏を死にいたらしめた世界自然保護局の責任は重大と言わねばならない」

 

「人間のために絶滅の危険にひんしている動植物の種を保護することは人間の完全義務である」という原則と、「それを実施する際に、人間個体の生存と〈あれか、これか〉の関係にならないように配慮しなければならない」という細則とを人類が批准したとしよう。

一部の農民を救うために焼き畑の方式で森林を破壊しているブラジル政府の政策は、人類の責任で〈あれかこれか〉にならないように解決しなくてはならない。開発のための環境破壊に対して、人類が問題解決の責任を引き受けなければならない。

(引用終わり)

 

種の保護と人間個体の生存とどちらを選ぶのか、人類の存続が掛けられていないなら「種の保護を優先する」というのは、余りにも頭でっかちな考えである。それは少し行き過ぎだと加藤尚武氏も考えて、

「情において忍びないこととはいえ、他の生物種の生存権に対して人間個体の生存権を優先させるならば、それは人間のゆゆしき越権というべきであって、種の生存権の平等を認めざるときには、特定種の保護のために他の種の絶滅をはかることも正当と見なされることになり、人類の悲願である自然保護の達成ははかりがたいものとなる以上、特定個人の生命を犠牲にすることもやむをえないものとしなければならない

という判決に遺族は控訴して逆転判決を得たというお話が結論となっている。

つまり

「自然の生物種を保護すべき完全義務を人類が負うという原則は否定すべくもないが、しかし、その実施にあたっては、人間個体の生存と〈あれか、これか〉の関係にならないようにする配慮が必要である。ペリカンの捕獲装置をロックし暗証番号を付する際に、もしかして飢えた人間がそれを求めた時の代替の食糧をそこに置くのは当然の措置なのであって、それを怠ったために中之島三郎氏を死にいたらしめた世界自然保護局の責任は重大と言わねばならない」

という控訴審判決だ。

 

ここでいう種の保存と人間個体の生存と〈あれか、これか〉の関係にならないようにする配慮すべきだというのだが、この考えから30数年後の今や環境原理主義はさらに過激になって、人間個体の生存と〈あれか、これか〉の関係にならないように配慮することなど全く「配慮」せずに、人間否定の過激主義がまかり通るようになってきた。

 

私個人的には、種の保存という考え方自体が胡散臭いと思っている。そもそも「種」とは人間が頭のなかで作り出したものだから、そういう幻想によって人間が掣肘(せいちゅう)されるなんて本末転倒ではないかと思うのだ。

もちろん、他の生物をむやみやたらに殺していいなんて言うつもりはないが、「第三の段階では、生命の質のためは言うにおよばず、人間個体の生存のためであっても、自然生物の利用は許されない」という考え自体が宗教的に過ぎて、頭でっかちすぎるのだと思う。

だから、この考え方が過ぎると至る所で摩擦を起こしてしまうのである。

小さいところでは動物愛護が行き過ぎて、カラスやムクドリの害を駆除することすらできない。人間よりカラスが大事となってしまった。それ以外にもイノシシやシカ、熊なども人間より大事に扱われているような気がする。

それについては、昔幾つか記事を書いた。

バカげた「思想」が人間を振り回している一例だ。

 

 

種の絶滅というが、我々が知らないところでは種の絶滅など頻繁に起きているはずだ。人間が知り得るだけの種について絶滅をさせないようにするなんていうのはナンセンスではないのか。

そして、人間に害を与える種も保護するのか。今の流れからすれば保護するのだ。

それなら動物ではないが、ペスト菌もコレラ菌も新型コロナウィルスもみんな生きているんだから保護しろよ、といいたいね。それの行き着くつく先がジャイナ教じゃないのか。

 

さて、脱炭素政策によるエネルギー政策や核戦争、世界経済フォーラム(WEF)のクラウス・シュワブやビル・ゲイツ、ジョージ・ソロスなど金はあるが狂っている奴らが人類削減を平気で唱えて、戦争やパンデミック、ワクチンによって人口削減を本気でやっているように思える。つまり、自分たちエリート以外の人間個体の生存価値はとても低く貶められたのである。まさにナチスの優生思想。

それが今回加藤尚武氏が解説してくれた種の保存と人間の生存のどちらを選択するのか、という考えが極端に進められて人類の存続をも否定してはばからないトンデモ結論に至るまできているのが欧米のエリート層なのであり、仮定の話でなく本気で実現しようとしているとなると本当に人類は絶滅してしまいそうで世界はこれから真っ逆さまに墜落していくんだなあと暗澹たる気持ちになる。

こういう原理主義思想とそれを支える狂った一群の人々を排除できる希望はあるのだろうか。

結論が出るころはもう私は死んでいないからどうでもいいのだが。