上田交通真田傍陽線 (長野県/上田-真田[傍陽]) その2

「北大手駅」跡を出て右へと折れると「上田花園駅」跡に到着します。
カーブ途中にあった駅で、駅跡はこの辺り右側と思われます。

そして線路はこの辺りを走っていたと思われますが・・・
ところが私は重大なミスを犯していることに気付きました。

この辺りが「北上田駅」跡だと思っていたら超絶勘違いでした。道路を一本間違えて

探索し損ねた「北上田駅」跡を過ぎたところで橋台跡を発見。
分かりますか?流れるは黄金沢(こがねさわ)川という川だそうです。

そして「川原柳駅」跡に到着手前、「公園前」~「北大手」間で
渡った「矢出沢川」を再び渡ります。するとここでも橋台跡を発見。

それにしても橋台跡が無ければとても廃線跡とは思えない場所です。
そしてこの橋を渡り、100mほど進むと「川原柳駅」跡に到着しました。

「川原柳(かわらやぎ)駅」跡に到着です。この辺りが駅跡だと
思われます。このバス停付近が駅跡なのでしょうか。

「川原柳駅」跡を出ると工場地帯の裏を通って行きます。
暫くはご覧のような開けた一直線の廃線跡が続きます。

道路が廃線跡です。高架は国道18号線(上田バイパス)です。

次駅「神科駅」跡手前にはこのように黄色く塗られた壁が。

「神科(かみしな)駅」跡付近へやって来ました。ところが発見出来ません。
この付近は「上信越道・上田菅平IC」の敷地となってしまったようです。

そして「神科駅」跡から次駅「樋之沢駅」跡へと向かいますが、この間の
廃線跡はほぼ残っていません。画像は「樋の沢駅」手前の廃線跡です。

「樋の沢駅」跡へやって来ました。駅跡が残っていると聞きましたが、
これは凄いです。完全にホームが残っているではありませんか。

ちょっとした住宅街のウラにこんなモノがあるとは。
素晴らしい廃駅です。暫くこの場に留まって眺めてしまいました(笑)。

「樋の沢駅」は二面二線の交換駅だったようですが、
この程度の間隔で足りるものなんですね。やや狭い感じがしました。

一旦消滅しますが、再びこのように復活します。
以上「真田傍陽線」、ほぼ中間地点までの廃線跡探索でした。
次回はこの路線唯一のトンネル、「伊勢山トンネル」を経て
「真田」「傍陽」各方面の分岐点手前、「本原駅」までを辿ります。
上田交通真田傍陽線 (長野県/上田-真田[傍陽]) その3
今回は「樋の沢駅」以降の路線、「本原駅」までを辿ります。

こちらは「樋の沢駅」跡を出て暫く進んだ部分です。舗装路から
砂利道へと変わりました。このような景色が暫く続きます。

「伊勢山駅」跡へと到着。しかしそれらしい痕跡は無く、発見には至らず。

トンネルです。こちらは「伊勢山トンネル」といい、
現在は"しめじ"の栽培として利用されているようです。

少々近づいて上から撮らせて頂きました。銘板等は無いようです。
レールも確認出来ませんでした。ではトンネル反対側へと向かいます。

その前に、「伊勢山駅」周辺を空撮で確認してみましょう。
この「伊勢山トンネル」を抜けると「神川第一鉄橋」がありました。

この「神川第一鉄橋」は左記空撮のように全長200m少々の鉄橋でした。
今ではご覧のように、両端に橋台跡を残すのみとなっています。

でじゃ「伊勢山トンネル」東口坑口へと向かいましょう。橋台跡脇から

しかし振り返ってみると、「伊勢山トンネル」東口がありました。
反対側と同じような造りで、こちら側にも銘板等はありませんでした。

あえて線は引きませんでしたが、この上に鉄橋が架かっていました。
ちなみに「神川第一鉄橋」は「川久保鉄橋」とも呼ばれていたようです。

反対側の橋台跡です。橋台上には家が建っていました。
良く考えたら、こんな頑丈で安全な場所は無い???

今度は東側の橋台跡から「伊勢山トンネル」方面を撮影してみました。
このような形で「神川第一鉄橋」は架かっていたと思われます。

橋を渡ってすぐに「殿城口(とのしろぐち)駅」跡があり、左へ折れました。
ちなみに「殿城口駅」跡は発見出来ず。先ほどの橋台上・住宅周辺だった?

次の駅は「真田」「傍陽」方面へと分かれる分岐点の手前にあった
「本原駅」跡です。駅跡はバス停付近にありましたが、今はご覧の通り。

「本原駅」跡を出るとすぐに「真田駅」と「傍陽駅」方面へと分かれました。
ここでは「真田駅(右側)」方面へと向かいます。国道144号線が廃線跡です。

では「本原駅」周辺を空撮で確認してみましょう。特に新たな家々が
立ち並んだということでもなかったのですが、分かり辛かったですねぇ。

正面に見えるのは白根山周辺の山々。冬場は真っ白なんでしょうね。
次回は真田方面の終点「真田駅」へと向かいます。
そして一度「本原駅」へ戻り、傍陽方面の終点「傍陽駅」へと向かいます。
この回にて「真田傍陽線」の探索は終了となります。
上田交通真田傍陽線 (長野県/上田-真田[傍陽]) 最終回
「本原駅」まで北上、クライマックスへと差し掛かって来ました。
探索は今回が最終回、最後は「本原駅」分岐後の「真田駅」と

「本原駅」跡を出ると真田方面と傍陽方面への分岐点に差し掛かります。
まずは先に真田方面へと向かいます。次の駅「北本原駅」跡へ到着です。

駅は既にありませんが、駅のあったことを示す「駅前食堂」が健在でした。
営業していたら入ろうと思ったのですが、残念ながら準備中のようでした。

「北本原駅」跡を出ると次は「石舟駅」跡「長村(おさむら)駅」跡と続くのですが、
既にバス停となり駅跡は存在しませんでした。ということで次は終点、「真田駅」跡です。

事前調査では、この辺りにホーム跡が健在とのことでしたが。
他にそれらしきものが無いので、これのことかと思いますが・・・。

近寄ってみるとやはりここがホーム跡のようです。坂になっており
(ホームは平坦)ホームの両端は随分と高低差が出来ていました。

駅舎は既に解体され、既に無いとのことでしたが、奥手にはこのような
年代を感じさせる建物が。恐らくこの建物は「真田駅」の証人かと思います。
以上で「本原-真田」間の探索は終了です。
次はここから再び「本原駅」へ戻り、今度は同駅から枝分かれした
もう一方の路線、「本原-傍陽」間の探索を行います。

再び「本原駅」跡へと戻り、今度は「傍陽駅」跡へと向かいます。
写真は「本原駅」跡出て分岐した直後の廃線跡です。

ここから暫くは下り坂が続きます。もちろんここも廃線跡。
コンクリート壁の一部が黄色く塗らられているのが分かるでしょうか?

妙なものを発見しました。恐らく切り口から架線柱を切ったものだと
思うのですが、どうも高さ的に妙なんです。何でコンクリートの土台が?

「本原駅」跡を出ると、ご覧のように列車はゆっくり下って行きました。
ちなみに土手向こうが先ほど探索した真田方面の廃線跡となります。

綺麗な石積みを発見。こういうのが残っていると

途中でこのような貨車が置いてあるお宅を発見。当時のものでしょうか?
ちなみにこのお宅の裏手が廃線跡です。倉庫として使っているようです。

「神川」という川へ差し掛かりました。ここにも大きな橋台跡が
残っていました。ただ、対岸は建物が建ち今は何もありません。

ふと川のほうへ目をやると、橋脚跡も残っていました。こういう遺構も嬉しいですね。

「横尾駅」跡「曲尾(まがりお)駅」跡はバス停となり発見出来ず。
終点「傍陽駅」跡手前にはこのような橋台跡が残っていました。

2003年まではあったそうなのですが、老朽化により解体されたそうです。
以上で「真田傍陽線」の全行程を終了致しました。
探索してみてまず思ったのは、景色の良い路線だったのではと感じました。
廃止から数十年も経っているにも関わらず、土地柄もあるのでしょうが、今でも
日本鋼管ライトスチール専用線 (埼玉県/籠原-同社熊谷工場)
【開業】1964年(昭和39年)3月13日 【廃止】1984年(昭和58年)2月1日
【魅力】正直、遺構は殆どと言って良いほど残っておりません。
ただし、その廃線跡に建った家々が廃線跡を教えてくれます。
カーブに並ぶ家々に注目。 【訪問日】09.04.29
●今回の探索ターゲットは、主に自己の用のために走り旅客用等には
かつてこの専用線が「籠原駅」から僅か 3km少々という距離でしたが
面白い特徴があります。それは・・・とりあえず行ってみましょう。

「籠原駅」の北側へやって来ました。JR高崎線との並行区間です。
廃線跡は調べた結果、右側の駐車場の部分と思われます。

「この辺りが踏切跡の中心か」と思いシャッターを切りましたが、
実はもう少々手前で、「有料駐車場」の看板の付近でした。

踏切跡を渡ると徐々に左へと折れ、高崎線と分かれて行きます。
ところで実は廃線跡は道路ではなくその左側、家の建っている辺りです。

私も当時は道路が廃線跡の中心だと思っていたために、
ショットの中心が道路になっています。

当然ながらここも廃線跡は道路の左側、建物のある部分です。
ちなみにこの道路は元々線路と並行してあったものでした。

今思えば私も浅はかでした。通りの反対側、家の立ち並んでいる部分が
廃線跡と分かっていたのですから、その延長線上だと気付くべきでした。

そしてここで最初にご紹介した「他の廃線跡には余り例を見ない
面白い部分」の登場です。この並んだ家々を見てもうお気付きですね。

珍しいというのは「廃線跡上、横一列に建てられた住宅群」のこと。
これだけギッシリと並んで建っているのって、見たことあります?

私が知らないだけでしょうか? とにかく空撮で確認してみましょう。
ご覧下さい、廃線跡に並んだ家々を。「廃線跡丸出し」、見事です。

間もなく終点に到着致します。黄色のラインが廃線跡です。

こちらはもう工場内に入る直前の廃線跡です。僅かに顔を出す
枕木を発見しました。ということは周りの石もバラストだった?

振り返ると、柵から向こうはもう工場内となります。手前にも
枕木が見えますね。また柵の向こうにもナニか見えませんか?

なんとレールでした。実は遺構跡なと殆ど期待していなかっただけに

僅かに数メートルというレールですが、嬉しい遺構です。
「ここは線路跡だった」という貴重な証拠ですからね。
ということで最後は空撮で確認します。随分と周辺は様変わりしたようです。
終点付近、工場内の様子を外から、そして空撮でも確認してみましたが、
遺構らしいものはこれ以上発見出来ませんでした。工場に入ればひょっとしたら、
長岡線 (新潟県/来迎寺-寺泊) その1
【廃止】1995年(平成7年)4月1日 【魅力】過去最長距離の廃線探索でした。
とはいえ都市部にあった訳ではないので、地図で迷うことは無く辿り易い廃線跡です。
ただ寺泊方面は難関。 【訪問日】09.04.11
●『廃線跡訪問記』は新潟県へ初上陸です。
これまでは非常に近い位置までは近づいたことがありましたが、
実際に足を踏み入れての探索は初となります。
そしてこの長距離のため探索レポも前回の井川線旧線同様、
最長タイの 4部構成でのUPを予定しております。
流れはまず「旧 西長岡駅」から出発し、「来迎寺(らいこうじ)駅」へ向かい、
そこからUターンをして「旧 寺泊駅」へと向かうというルートを辿ります。
いやぁとにかくボリューム満点、長かったです。ではご覧下さいませ。

まず最初にやって来たのは「旧 西長岡駅」です、が。
ご覧の通り、広大な敷地はスーパーへと変貌しておりました。

では恒例、「西長岡駅」の現役時代&現在を空撮で比較してみましょう。
現役時代は多くの車輌が止まっているのが見えますが、今は・・・。

「西長岡駅」を出ると、すぐに廃線跡と分かる場所へ出ました。線路は

ここがその分岐点です。中央に鉄塔が立ってしまいましたが、
分岐点だという証拠は十分過ぎるほどに残っていました。

少々先へ進むと緩やから左カーブが現れます。
見辛いかと思いますが、バラストも残っています。

手前にはバラスト、その先には小さな橋台跡が見えます。
その下は小さな川か、蓋をされていますが当時は無かったのでしょうね。

廃線跡丸出しの築堤です。ついつい線を引きたくなっちゃいます。

この時は桜が満開でした。桜をもう一度観られるとは・・・ラッキーです。

「平成7年4月1日以降廃止」。この古びた看板・・・何か感じさせるものがあります。

小さな小さなガーター橋を発見。枕木も残っておりました。
その先、バラストの残る路盤跡もレールこそありませんが見事です。

こちらは「才津(さいず)駅」跡です。かつては貨物駅的な役割も果たしていたようです。

では当時と現在の比較を空撮画像でしてみましょう。
あまり変化はせず空き地となっているのが分かるかと思います。
奥に見えるのは関越道です。当時はこの下を潜りました。

関越道を潜り「上富岡駅」(コンビニに)を通過し田園地帯の途中、
このように突き出たレールを発見。何もこのような残し方をしなくてもいいのにね。

再びレールを残す踏切跡が。周辺はこのような田園地帯です。
以上、「西長岡駅」~「深沢駅」間の探索でした。次回はここから先の