蒲原鉄道1 (新潟県/加茂-五泉) その4

中には身の丈以上もある草もありましたが、ようやくトンネル入口まで
辿り着きました。既に向こう側の出口も見えており、短いトンネルです。

少々中に入って振り返って撮影。こうして見ると、草だけの高さではなく
随分と土も盛られたようです。草ばかりで分かりませんけどね。

少々進むと何やら「キーキー」という泣き声が。ふと上を見ると・・・
「ギョ!」 コウモリさんではないですか。初めてお逢いました。

コウモリさんには「静かにしていてね」と伝え(笑)、先へ進みます。
反対側出口が見えて来ました。出口は切り通しになっているようです。

抜けました。あわよくば先へ進もうと思ったのですが、この通りで断念。
ムリすれば進めそうですが、目に見えないクモの巣もモノ凄いんですわ。

ということで引き返すことにして、振り返って反対側をパチリ。
トンネル内、左側手前の一部は壁が崩れ土砂が流れ出ていました。

では先へ進みましょう。こちらは「土倉(つちくら)駅」跡です。
と言っても殆ど分かりませんけど。築堤上にあった駅でした。

この辺りから大蒲原の平野を走り次は「高松駅」跡へ到着です。
駅跡は健在ですが、外側を残すのみで内側はスッカラカン。何故?

次へ行きましょう。「大蒲原駅」跡を過ぎ次は「寺田駅」跡へ到着です。
このように「大蒲原駅」から先は今は道路へと変わりました。

更に道路と化した廃線跡を進むと「西村松駅」跡へ到着します。
空撮で確認するとこの付近だと思うのですが、変わり過ぎてて分かりません。

更に飛ばします。すると「村松駅」へと向かう途中の公園にこのような
ものを発見しました。もちろん当時活躍していた車輌です。

そして道路と化した廃線跡は「村松駅」手前で終焉を迎えます。
少々右へ折れて、住宅街の裏側を走って行きました。
では今頃ナンですが、この「蒲原鉄道」の廃線年度をご説明したいと思います。
ここでこの説明をする意味は、廃線時期が分かれていたからです。
二回に分かれており、最初に廃線となったのが「加茂-村松間」で
1985年に廃線となりました。そしてそこから14年後の1999年、遂に残っていた
区間の「村松-五泉間」も乗客減少に歯止めがかからず、遂に廃止となりました。
ということで次の「村松駅」から 2つ先の終点「五泉駅」までは、最後まで残った区間で
これまでの廃線跡よりは若干新しい廃線跡となります。では続きをどうぞ。

住宅街の裏手を抜け、左へ折れると「村松駅」に到着です。
こちらが駅構内ですが、この通り、当時の遺構は何もありません。

しかし駅は健在でした。というのも今もバス会社として健在の
蒲原鉄道本社ですから当然ですね。「村松駅」の文字がステキです♪

そして周辺をウロウロしてみたら、レールを発見しました。
調べてみたら廃線後暫くは、ここに車輌が残っていたようですね。
今はバスターミナルとなり、一部はコンビニにもなりました。
その4は以上で、次回にていよいよ「蒲原鉄道」編は最終回を迎えます。
次回はこの先の終点「五泉駅」までの探索と、「おまけ」を掲載致します。
蒲原鉄道1 (新潟県/加茂-五泉) 最終回
最終回はもちろん残された部分の探索を行います。「おまけ」も付けてみました。

「村松駅」を出て遂に終着駅「五泉駅」方面を目指します。とその時です。

架線柱どころではありません。当時活躍した車輌なのでしょう、
「かんてつ」の車輌も 2両、そして踏切等も保存されておりました。

ホームは後から建てたものなのでしょうが、表示物は当時のもの?

そして良く見たら入口にこのようなものが建てられておりました。
本当に長きに渡り愛され続けた鉄道だということを実感しました。

「今泉駅」跡を過ぎると、「村松駅」からずっと平行して走ってきた
県道7号とお別れします。大きく迂回するような形で「五泉駅」へと接続します。

今はもう何もありません。ただの空き地のように見えますが、
この縦長に続く空き地が廃線跡だということを教えてくれています。

この辺りにはバラストが残っていました。さぁもう一息で終点です。

結構キツい左カーブが続きます。すると、見えてきました。
終点「五泉駅」です。ちなみに路盤跡は道路ではなくその右側です。

「五泉駅」跡、構内全体です。本当に何もありません。このやや左側に
かんてつホームはあったようです。右側は磐越西線のホームです。

殺風景過ぎる風景です。ところで画像手前に散らばる石板は
何か当時の名残りなのでしょうか。というか、名残りであって欲しいです。

ではかんてつ編最後の空撮です。もちろん「五泉駅」の今昔比較です。
かんてつのホームだけがポッカリと無くなっているのが一目瞭然です。
ということで長かった蒲原鉄道の探索もこれにて全工程終・・・
ではありません。まだもうちょっとだけ続きがあります。
ここから直線距離で 6kmほど離れた場所(車で移動すると約 8km)に
事前情報によると既に閉館しているという話でしたが、
向かう価値は十分にあると見込んで現地へと急ぎます。

「安田民俗資料館」へとやって来ました。一体ここにナニがあるのか。
遠目にですが、気付きましたか?駅名標が多数並んでいるのが。

中へ入ると、やっぱりでした。雑草は伸び放題でクモの巣だらけでした。
家の中はというと、失礼ながらガラクタ倉庫の様相を呈していました。

「かんてつ」の駅名標が並んでいます。この場所は
しかしここは一体どうなっているのだろう?HPはまだあるようだし・・・。
この「蒲原鉄道」の探索を終えてまず率直に思ったのが、「地域の発展に尽くし
地元の人々に愛された偉大な路線」だったということを強く思い知らされました。
4ヶ所もの場所に車輌を保存・展示している路線なんて今までありませんでしたし。
ただ最後の放置状態にある「安田民俗資料館」の遺構たちは可哀想でした。
再開の予定はあるのでしょうか?早く何とかしてあげられると良いのですが・・・。
蒲原鉄道2 (新潟県/加茂-五泉) 前編
【開業】1923年(大正12年)10月20日 【廃止】1999年(昭和63年)10月4日
加茂-村松間(17.7km)は1985年4月1日の廃止。
【魅力】85年廃止の割に加茂-村松間の遺構の数に驚きます。
地元に愛され続けた路線という実感も。 【訪問日】10.01.11
●前回、「 伊香保ケーブル鉄道 」に続いてのリベンジ編で、
今回は「蒲原鉄道」です。 前回 の訪問は約半年前の夏でした。
こちら理由も同じく、夏場特有、「超絶雑草により行く手を阻まれ
その宿題とはこちらで、「農林トンネル(仮)」の部分です。
さて今回はリベンジ達成となるのでしょうか。ではご覧下さい。

前回の訪問から半年、季節はすっかり冬となり所々に雪も見られます。
今回は新幹線で「燕三条駅」まで行き、「加茂駅」へとやって来ました。

こちらは前回もUPした「加茂川」に残る「かんてつ」の橋梁跡です。
今回は加茂方面から別角度で撮ってみました。

今度は真下から撮ってみました。まるで現役のように見えます。
未だに残る枕木も写っています(レールはありません)。

そして驚くべき出来事が。前回と同じルートを辿っている筈なのに、
この正面に見える廃ガーター橋を見落としていたことに気付きました。

こんなにデッカイ遺構を見落とすなんて・・・。しかもその先にも(加茂方面)
廃線跡が残ってるし。全然見落としてました。何やってんでしょうねぇ。

更に先へ進みます。ありましたありました。前回も見た築堤跡です。
ちなみに前回は こんな感じ でした。雑草が見事に消え去っています。

もう一枚。こちらは築堤跡らしく見えますね。左奥に「陣ヶ峰駅」も写っています。

約半年振りに「陣ヶ峰駅」へと帰ってきました。相変わらず立派です。
ただし前回探索済みなので、今回は登ったりする予定はありません。

反対側から見てみました。そういえば「前回はこの角度から見なかったな」
なんて思ってたら、あるモノを発見しちゃいました。矢印の部分です。

ナント階段でした。どうやらこちら側にも駅の入口があったようです。
「陣ヶ峰駅・南口」と言ったところでしょうか。

途中まで登ってみました。階段の途中、右側には枕木が束になって
放置されていました。それにしてもここも見落としてたとは。予習が甘いですね。

登るつもりは無かったのですが・・・結局登ってしまいました(笑)。
見事に誘い出されました。何度行ってもいいところですけどね。

そして再びホーム上へやって来ました。相変わらず良い眺めです。
ちなみにこちらは 夏の写真 です。日本の四季を感じますね。

こちらはこれから進む「農林トンネル(仮)」方面の築堤跡です。
こちらも 前回 と比較 してみましょう。ちゃんと階段も現れています。

この分なら「農林トンネル(仮)」も順調に・・・と期待しながら、
目的地を目指します。この付近も前回は雑草だらけでした。

見違えるように雑草が激減しました。これで「行ける!」と確信しましたが・・・。
何処もかしこも雑草が激減している様子から、これで探索可能かと思っていた
蒲原鉄道2 (新潟県/加茂-五泉) 後編
いよいよここから先は「未踏の地」となります。ではご覧下さい。

前回 挫折した地点を通り過ぎました。雪解け水の影響か、
かなり下がぬかるんでいますが、なんとか進める状況です。

と、突然のことでした。「ズボッ!」と体が浮く感覚に襲われました。
水溜り・・・というより池ですよ、これは。靴に浸水は何とか回避しました。

こちらがトンネルまでの廃線跡なんですが、もう湿地帯です。更には
腐った枯葉が折り重なり、「どこが埋まるのか分からない」のです。

遠くにはトンネル入口が顔を覗かせています。あそこに見えるのに、先へ進む
ことができません。廃線跡脇も、竹薮で雪も降り積もり、道が悪く使えません。

結局ここを進むしか無いか、と策を練ります。今日は電車なので足元を汚したくなく

ひらめきました! コイツを使い足元を確認しながら進むことにしました。
実は何と、これが大活躍することになります。とりあえず希望が見えてきました。

そして所々に浮かぶ「枕木」を、浮島代わりに利用し進むことにします。
またこの距離感が絶妙で、ワザと置いたのか?って感じなんですよね。

何とかここまで前進して来ました。しかも僅か数十メートルを進むのに
要した時間は10分以上・・・ちなみに左の雪の部分は全て「ズボッ!」です。

遂にターゲットの目の前まで来ました。あともう少しです。

と、その前に振り返って撮影します。コレ、全て沼化していると思って
頂いて結構です。どの経路を辿って来たのか説明したいくらいです(笑)。

そして問題のトンネル内ですが、水没しているのは入口部分のみでした。
例によってまたもや絶妙な感覚で(笑)枕木が置かれています。

しかし何故「ここを行け」みたいな指図するような置き方なんでしょう。フフ、その

無事トラップエリアを通過、振り返ってみます。
これまでの経緯はとりあえず置いておいて・・・良い景色ですねぇ。

では先へ進みましょう。水没地帯は右側を残すのみでもう大丈夫です。
また短いトンネルで、反対側出口の明かりが漏れているのが分かります。

ほぼ中間部分に、このトンネル唯一の待避所がありました。
ただこの待避所って、奥行きがやたらと浅くありませんか?

トンネル内の枕木は埋まったままで、ただ単にレールを取り除いた
だけのような状態です。ただ並びが悪いので後から埋まった可能性も。

いよいよ出口(五泉方面)です。しかしご覧下さい、この状態。地面の状態は最悪、

以上で探索終了です。囲みは帰りまでお世話になった「第三の足」です(笑)。
冗談抜きであの「第三の足(棒)」があって本当に助かりました。
それでも僅か数百メートルの探索に一時間以上かかりました(汗)。
繰り返しになりますが、この時ほど長靴を恋しく思ったことはありませんでした。
(ちなみに「無傷だった」という訳でもなく、額や手のひらを負傷、
靴も派手に汚れてしまい、駅で洗ったりなど事後処理が大変でした。)
弥彦線 (新潟県/東三条-越後長沢)
【開業】1927年(昭和2年)7月31日 【廃止】1985年(昭和60年)4月1日
【魅力】数少ない遺構となっている弥彦線ですが、
メインは東三条駅前。弥彦線の路盤跡や駅を出た後のカーブなどか。
蒲原鉄道訪問の前にいかが? 【訪問日】09.07.25
●新潟県三条市へやって来ました。実はこの日の本来の目的は
「蒲原鉄道(次回掲載予定)」の探索が目的で、
簡単に言うなら「前哨戦」のつもりでの探索でした。
そもそものきっかけは、「蒲原鉄道」の予習を行っていた時に、
偶然この「東三条駅」近くの「妙なカーブ」を見つけたことからでした。
こんなこともあるのですね。ということで「蒲原鉄道」の前哨戦、
「弥彦線」の廃線区間の探索に行ってみましょう。

東三条駅にやって来ました。ちなみにこの日は一つ隣の駅「北三条駅」
近くのホテルに宿泊し、すぐ隣のこの地までやって来ました。

ではまずは私がこの地を訪れるキッカケとなった画像を見てみましょう。
右側にカーブがあります。これを見て「もしや」と調べたらこの廃線跡でした。

ちょっと中を覗いてみました。恐らく空撮画像から推測するに、
弥彦線のものかは分かりませんが、この土台はホーム跡でしょう。

一番右のレールが位置的に弥彦線の廃線跡と繋がっているようです。
上記空撮にもあるように、この右側にターンテーブルもあったようです。

当初は気付かなかったのですが、帰り際に気が付きました。

「東三条駅」を出て、残っていた弥彦線のレールの延長線上へ来ました。
左側のマンションの建っている辺りも、以前は駅の敷地だったようです。

ちょっと覗いてみましょう。ありました、ありました。僅かながらの遺構が。
こんな僅かな遺構でも「推測」が「確証」に変わります。楽しい瞬間です。

では先へ進みましょう。このようにカーブしています。
最終的に、並行するJR信越本線から約 50度右へ折れます。

更に先へ進みます。ちなみに上を走るのは国道 289号線です。

引き続き、なだらかな右カーブが続きます。

しかしこの後はこのように長い直線が続きます。また、廃線跡が

ということで一気に先へ進み、五十嵐川という川まで来ました。
ちなみにご覧になっいてる橋、車の走っている橋が廃線跡です。

この橋の横に妙なものを発見しました。これはひょっとして・・・。
調べたら以前はここに道路用橋梁があり、これはその名残りでした。

では当時の様子を空撮で確認してみましょう。このような状況でした。
左の写真はその名残りを写したものですが、これ以上は発見出来ず。

そして橋を渡り築堤を下るとすぐに「大浦駅」がありました。
道路の右側、少々広くなっている辺りが駅跡だと思われます。

再び空撮画像で当時の様子を確認してみましょう。
単線一面のホームの様子が見て取れます。

終点、「越後長沢駅」跡へやって来ました。駅跡を示すものは
ありませんでしたが、しいて言うならばこの空き地がそうでしょうか。
ところで駅舎が確認出来ないのですが、どこなのでしょう?
以上「弥彦線」の廃線跡でした。ちなみに今頃ナンですが、
この「弥彦線」は現在でも活躍中(弥彦-東三条間)の路線です。
