島原の歴史まとめ 後編 | 自転車とか歴史とか

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熊本在住

文章力皆無なので備忘録的意味合いが強い。
地元の図書館とwikiや野良サイトで調べてるだけなので間違いが多いと思われる。
想像・妄想で書いてることも多いので話半分程度に読んでほしい。

 

の続き

 

 

戦国時代を生き抜き、

南蛮貿易によりキリスト教だけでなく富や技術を得て

幕府の信頼も得て全盛期を迎えた有馬晴信であったがある事件が起こる

 

 
岡本大八事件

事件の内容は複雑なのでwikiを読んで欲しいが

長崎奉行 長谷川藤広と有馬晴信の貿易権争いが起こっている所に

岡本大八が偽の朱印状等を用意して「恩賞(戦国時代の失地の回復)の仲介をするから賄賂を出してほしい」と晴信に持ち掛ける

信じた晴信は賄賂を渡すが岡本大八は賄賂を持ち逃げして事件が発覚

大八が拷問に掛けられた際に「晴信が長崎奉行 藤広を『沈めてやる』と言っていた」ことなども白状し、晴信もそれを認めてしまう

賄賂と長崎奉行への害意が問題となり「領回復の弄策と長崎奉行殺害企図の罪」で晴信は流刑され

最終的に斬首(キリシタンのため切腹は拒否)

無理にまとめるとこんな感じか

 

要は、なんやかんやあって最終的に有馬晴信は死刑となってしまったと。

 

 

岡本大八事件は有馬晴信がキリシタンであることは関係していなかったが、

大八がキリシタンであったこともあり幕府のキリシタンへの疑念が生まれ

その後起こった平山常陳事件により幕府のキリスト教不信が決定的なものとなり

キリスト禁教令を出すに至る(平山常陳事件は島原と関係ないので割愛)。

各地にいたキリシタン大名(黒田長政や大村氏)は棄教し有馬晴信の死刑により完全に姿を消した

 

 戦国時代~江戸時代に九州各地にいたキリシタン大名の状況

 大友氏→大友宗麟の後の義統はキリスト教を信奉せず、大友氏自体も改易され没落

 大村氏→棄教し日蓮宗に改宗

 小西行長→関ヶ原の戦いの後死刑となり没落

 黒田氏→黒田官兵衛の後の長政もキリシタンであったが棄教した(官兵衛も棄教した説もあり)

 有馬晴信→上記の通り死刑

 天草氏→天草国人一揆(天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏と加藤清正・小西行長の戦い)により滅亡

 

九州各地にいたキリシタンは次第に行き場をなくし最終的には島原の有馬氏の下に集まっていたのではないだろうか?

 

 

 

▽有馬直純

有馬晴信は死刑となったが、

子の有馬直純は徳川家康の側近として仕えていたこともあり、そのまま所領を継承した。

 

直純は当初はキリスト教徒であったが幕府の禁教令に従い改宗し、キリスト教を弾圧した。
親族である8歳と6歳の異母弟ですら殺害する徹底ぷりであったが、

弾圧に疲れ移封を申し出て島原の地を去り日向延岡藩主となる。

ここで有馬氏の治世は終わり、2年の天領を経て松倉重政が藩主となる。

 

 

 

 

〇江戸初期~島原の乱

 

松倉重政とんでもない重税を課し凶作でも徴税を緩めず、

キリシタンや年貢を納められない農民を拷問・処刑していった。

 

 

 

重税の理由の1つに島原城の築城があり、領地に不相応な巨大な城を築城したとされる。

 

 

 

キリスト教弾圧のためにルソン島攻略をしようと更に重税をかけている所で急死。

 

子の松倉勝家人頭税や住宅税を追加するなど父を凌ぐ重税を課し、

 

島原地獄を使った熱湯による拷問や死刑を行ったり

 

蓑を背負わせて火をつける蓑踊りという拷問があったとされる(これは捏造説あり)

 

 

浪人を含むキリシタンが大量におり

重税による重税や拷問といった要素が重なって

とうとう天草島原の乱が引き起こされることになる。

 

 

〇天草・島原の乱

一揆軍は島原と天草の間にある湯島で談合し、

 

天草四郎を総大将とすることを決めた。

天草四郎は本名を益田四郎といい、

関ヶ原の戦いで敗れ斬首された小西行長の家臣であった益田好次の子である。

一揆軍はこういった没落したキリシタン大名の元家臣が指揮しており、

単なる市民による一揆とは違い統率のとれた軍であったとされる。

 


天草の進軍状況については↓の「天草・島原の乱における本渡と富岡城での戦い」参照

なお、当時天草を治めていた寺沢堅高もキリシタン弾圧を厳しく行っていた背景がある。

 

因みに2021年は天草四郎生誕400年とされるらしい

 

 

 

 

島原での一揆軍は、南部の農民と取り込み北上。

松倉勝家は島原城に籠城し、一揆軍はこれを攻めるが落としきれず。

 

幕府軍の動きを知り後退し天草の一揆軍と合流し原城に立て籠る

 

より画像拝借

 

 

 

因みにこの原城の高台は約9万年前の阿蘇山噴火の火砕流の堆積物らしい

 

 

 

幕府軍により原城は包囲される。

 

要害の地であったようで、総攻撃をするも成功せず、

 

幕府軍は兵糧攻めに切り替え

(黄色線から北が幕府軍 南が原城の一揆軍)

 

 

最終的に島原城は落城。
籠城した老若男女37,000人は全員が死亡したとされる。

 

こうして見ると一般的によく言われる「キリシタンが一揆をおこした」「松浦勝家らによる重税・拷問に対する農民一揆」という一面だけでなく

 天正遣欧使節を送った九州のキリシタン大名である大友・大村・有馬の三氏の内、

 「大友氏は改易され没落」し「大村氏は棄教してキリスト教を迫害」し

 加えて肥後に来ていたキリシタン大名 小西行長も切腹となったため(黒田孝高も棄教)

 有馬氏の下に各地キリシタンが集まっていた

 そのキリシタンの中には浪人となった武士も多くおり天草島原の乱の指揮を執った

という一面も見えてきた

キリシタンが島原天草に集まっていたのは偶然ではなく、周辺のキリシタン大名の没落による結果ということか

 

 

また、廃城となっていた原城を再整備することで要害とされてしまったことで

一国一城令によりこういった廃城となった城は放置ではなく破却されることとなる。

 

 


後は高力忠房が藩主となり荒廃した島原藩の復興に尽力した。

 

 

松倉氏による重税・拷問・弾圧と島原の乱により元からいた住人の殆どが亡くなったため、

現在の島原の住人の大半は乱後の移住者(強制移住が多かったようだ)の子孫らしい。
凄い話だ。

 

 

 

▽城の遷移ざっくりまとめ

1213-1219年頃 藤原経澄(後の有馬氏)により日野江城 築城
1496年       有馬晴純により日野江城の支城として原城 築城
1616年       有馬氏が移封後、松倉重政が日野江城に入城
1618年       松倉重政により島原城 築城開始 1624年完成 合わせて日野江城・原城は廃城
1637-1638年    島原の乱  後に原城は破却される

 

 

 

 

 

 

 

〇江戸時代中期


もう1つ酷い話があって
1791年の年末頃から雲仙普賢岳が半年にわたり噴火・地震を繰り返し

溶岩流や噴石・火山ガスで周辺の集落が被害を受け、

 

1792年5月

大きな地震が2度起こり眉山の山体が崩壊し大量の土砂が有明海に雪崩込み、

10mの巨大津波が肥後の天草や長洲を襲った。


津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている。

 

 

島原大変肥後迷惑というコミカルチックな名前がついてるが非常に凄惨な事件だったようだ。

 

その時に出来た島が九十九島といい 現在も島原港前に小島群が浮かんでいる。

 

多分この小島かな?

 

 

 

雲仙は平成にも噴火しておりかなりの被害を出している(平成大噴火

溶岩の流れ込んだ場所はそのまま遺構として残されている

写真はその遺構の上に掛けられた橋からの写真

 

橋から下流方向の写真

 

 


ということで原城を中心とした南島原の歴史 事前学習をまとめた。

 

 

 

 

 

おさらいまとめ

・神話の時代には高来と呼ばれていた

・中世・戦国時代は有馬氏が島原一円を支配したまま江戸時代初期まで生き残り、

 幕府に迫害されるキリシタンを匿ったりしていた

・有馬氏が島原から日向に移り、代わりに松倉氏が藩主になると

 重税と農民・キリシタンへの拷問処刑により天草島原の乱が発生

・島原の人間の殆どが死んで復興に多大な時間がかかった

・雲仙岳の大噴火は江戸時代と平成に起こっており多大な犠牲者が出た

 

 

 

 
 

 

 

 

 

おわり