以前の事前調査の後、実際にライドしてきたので肉付けして焼き直し記事を書く
・神話の時代には高来と呼ばれていた
・中世・戦国時代は有馬氏が島原一円を支配したまま江戸時代初期まで生き残り、
幕府に迫害されるキリシタンを匿ったりしていた
・有馬氏が島原から日向に移り、代わりに松倉氏が藩主になると
重税と農民・キリシタンへの拷問処刑により天草島原の乱が発生
・島原の人間の殆どが死んで復興に多大な時間がかかった
・雲仙岳の大噴火は江戸時代と平成に起こっており多大な犠牲者が出た
南島原市に焦点を当てているのでの東側・南側がメインになっている
〇古代
古代の島原は高来(たかき)郡や高来縣と呼ばれていた(中心地は諫早?)ようで
ヤマトタケルのパパで九州の古代史を語る上で欠かせない存在、景行天皇の九州巡幸の際の記述がある
景行天皇の巡幸経路(『景行天皇と巡る西海道歴史紀行』より)
日本書紀には高来郡のエピソードはないが肥前国風土記に、
長渚濱(長洲浜)を訪れた景行天皇(第12代)が対岸の雲仙岳をご覧になり、“あの山は島か半島か?私は知りたい。”
と仰せになり、臣下を派遣して確認させたところ、山から雲仙岳の神(高来津座)が下りて来て出迎えた。
とあり、ここから高来という地名が生まれたそうだ。
(北側から雲仙を望む)
↑の臣下と同一人物かは分からないが景行天皇は神代直という人物を島原に派遣したともされる。
後の時代にも神代氏は存在し、神代神社などがある。
神代神社
神代小路
江戸時代には佐賀藩神代領として↑の神代小路や↓の鍋島邸などが今も残る
朝早かったせいか休館だった
また日本書紀等が編纂された時期である701年に雲仙の上峰に行基により温泉山満明寺が創建された。
女人禁制で修験道の場として非常に栄えていたようだ。
この温泉は「うんぜん」と読み古くは雲仙ではなく温泉と書いていたらしい。
正式に雲仙岳に改名されたのは1900年頃の話のようだ。
明治の廃仏毀釈により寺と神社が分かれ温泉(うんぜん)神社ができた
雲仙の地獄めぐりをする際は足を運ぼう
因みに雲仙岳とは、沢山の岳の総称を指す
「雲仙火山」と同義で、最高峰の平成新山をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山を含め、東の眉山から西の猿葉山まで、総計20以上の山々から構成される。
(雲に隠れた平成新山)
(仁田峠付近にて)
〇鎌倉~南北朝時代
鎌倉から江戸時代初期にかけては有馬氏に焦点を当てて話を進める
鎌倉時代、
1213-1219年頃、藤原経澄(後の有馬氏)により日野江城を築城
(中央奥の山が日野江城)
1353年 当時菊池氏と関係の深かった有馬澄世により、肥後の名僧 大智禅師を招く
(絹本著色大智禅師画像 石川県蔵)
大智禅師は
島原北部に本覚寺
島原南部に水月山円通寺
を建て、晩年を円通寺で過ごした。
円通寺での大智禅師は「日本昔ばなし」にもなっている
あらすじは↓から
この中で出てくる猿の沢山いた岩戸山というのは島原の南端近くの加津佐(かづさ)町に今も残っている。
(花房展望所より 左の山が岩戸山)
(北東側から撮影)
山の中には「さるの墓」もあるようだ
因みに地図の右の方にある「大智禅師堂」が水月山円通寺のあった場所となる。
後の戦乱等で荒廃したが、岩戸山の登り口の場所に「普陀山巖吼寺」として再興している。
>【由緒】巖吼寺は前名を円通寺と称し、正平8年(1353)、時の領主・有馬佐衛門佐澄世公が大智禅師の崇高なる徳に帰依し、肥後広福寺より禅師を招請して一宇を建立し、その開山となる。当時は禅師の教化篤く、常住の僧300人におよび、七堂伽藍を備え、寺運は隆盛を極めていたが、天正7年(1579)、寛永14年(1637)、島原の乱の暴徒の兵に遭い、一時荒廃した。慶安5年(1652)雲山愚白和尚が加州より来て大智入定名蹟の廃頽を嘆き、智公の偉業を興さんとして円通寺再建を発願し、時の領主・高力高長の許を得て、寺号を普陀山巖吼庵と改称して復興し、今日に至っている。往古より観音霊場(郡内三十三観音霊場の第20番札所)にして、人々の信仰が跡を絶たない。
岩戸山には穴観音など重要な史跡も数多くあるようだ。
〇室町時代~戦国時代~江戸初期
さて、大智禅師の話に逸れたので有馬氏に話を戻す
鎌倉時代までは島原南部の一地方領主でしかなかった有馬氏だが次第に勢力を広げ
▽有馬晴純
有馬晴純の時には島原半島一帯を治めるまでに勢力を拡大した。
1496年には日野江城の支城として原城を築城した。
この頃までの日野江城・原城は中世の山城であったと思われるが
南蛮貿易により近代城郭へと変わっていく
発展する一方で晴純はキリスト教を受け入ず弾圧する。
有馬氏といえばキリシタンのイメージが強いがこの頃はまだキリシタンではなかったことが分かる。
▽有馬義貞
次代の有馬義貞は貿易のためにキリスト教を推奨した。
ここからキリシタン有馬氏へ切り替わっていくようだ。
日本初の病院を作ったとされるルイス・デ・アルメイダに口之津での布教を許可している。
その成果か1550年にはポルトガル船が入港するようになり更に発展する。
口之津には南蛮船来航の地の石碑もある。
>「この地方において志岐、口之津を除けば安全にして四方の風を避ける便利な港は他にない。口之津は良港である。なぜなら、船を随意に碇泊することが出来るからだ。」(リストホーテン“水路記集”)
(奥の島は天草下島)
(月曜休館で入れずorz)
▽有馬義純
次代の有馬義純は21歳で早世
▽有馬晴信
早世した義純の弟、有馬晴信が5歳(4歳?)で当主となる。
この有馬晴信はキリシタン大名であり激動の戦国時代を生きた人物でもある。
とりあえず有馬氏と言えば有馬晴信をチェックしとけばOK
有馬晴信は龍造寺氏と対立し攻め込まれる島津氏と協力し沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討った。
豊臣秀吉の九州平定の際は島津から離れ、そのまま所領を安堵されている。
この辺の九州三国志の話は非常に面白いが島原の話から大幅に逸脱してしまうので割愛。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では第一軍として小西行長らと共に戦い、
慶長の役終結まで何年も朝鮮に駐在していた。
関ヶ原合戦でも最終的には東軍(小西行長と敵対)として宇土城攻め(子の直純が代行して出陣)をし、そのまま所領を安堵された。
激動の時代の中でかなり上手く立ち回って領地替えもなく生き延びた優秀な存在と言えるだろう。
彼は熱心なキリシタンであり大友宗麟や大村純忠とも親交があり
口之津に入港したアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより提案された天正遣欧少年使節という4名の使節をローマに派遣。
使節はローマで勉強し、グーテンベルク印刷機を持ち帰るなどの功績も上げている。
(スペイン王フェリペ2世や教皇グレゴリウス13世とも謁見)
島原のキリスト教施設が建てられたのもこの時期で、
使節の4人の少年は有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨ(神学校・小学校みたいなもの?)
で教育を受けた者から選ばれている。
南蛮の技術はキリスト教関係だけでなく様々な富や技術ももたらしたようで
当時の本城、日野江城からは金箔瓦や海外の陶磁器が見つかっている
貿易に手に入れた香木「伽羅」を徳川家康に献上することで家康からの信頼を得ており
息子の有馬直純は駿府城で家康の側近として仕えるまでなっていた。
↓のような逸話が残っている通り(?)、島原はキリシタンが集まる土地に変貌していたようだ
>・熱心なキリシタンであった為、秀吉・家康によってキリスト教が禁止・処罰されるようになっても領内に多数のキリシタンを匿った
>・ 信仰に熱心なあまり、破壊した寺社の資材でキリスト教育施設を領内に作らせるなどの強引な一面を窺わせる逸話も残っている
大智禅師の円通寺を破壊したのもキリシタンであったようだし
日野江城の礎石には仏塔が使われていたエピソードもあるようだ
全盛期を迎え栄えていた有馬氏であったがある事件により転落することになる。
文字数制限になったので残りは後半へ