今流行りの新型コロナで天草下島一周サイクルマラソンも中止になってしまった。
だが公道イベントなので一緒に走る約束していた友人達と集まって
(ほぼ)同じコースを走ることになった。
あくまで個人的なサイクリングなのでサイクリング協会等とは一切関係ない完全自己責任。
●2/22
三連休を取っていたので予定通り土曜には天草本渡入り。
15時ころ到着したのでまずは地元の歴史を紐解こうと
本渡歴史民俗資料館へ
ここは館長の趣味なのか明治以降の資料が多く、
また解説も少なかったのであまり勉強にはならず
早々に退散し
天草キリシタン館へ
ここの資料は非常に濃く勉強になったが殆ど撮影禁止だったので写真はなし
訪れた順番に説明すると時系列が滅茶苦茶になるので
歴史の時系列順に説明する
下調べの分も入れると
天草下島で歴史に残っている主な出来事は大きく3つあり
・大蔵太子(天草氏)の元寇参戦
・天草一揆における木山弾正vs加藤清正
・天草・島原の乱における本渡と富岡城での戦い
▽大蔵太子(天草氏)の元寇参戦
元寇と言えばアンゴルモア 元寇合戦記
(関連記事→漫画アンゴルモア博多編が面白い)
鎌倉時代の元寇の際、本渡城の天草大夫 大蔵太子という女傑が水軍を率い蒙古軍を撃退した。
諏訪大明神に祈願していた太子は元寇後、本渡に諏訪神社を勧請・建立した。
以降、天草氏の氏神として存続し続けた。
ということで本渡諏訪神社
この天草大夫大蔵太子は最近流行りの女体化、、、ではなく現実も女性だったらしい
鎌倉時代は女性でも家督相続権があったようである
ただし強キャラ感満載
因みに初期は本渡町山口にあり名前も山口諏訪神社だったようだ
本渡諏訪神社旧跡
近くに諏訪明神 御竃之地 の石碑もあったが何だろう?
初期は本渡町山口にあったが
天草・島原の乱で焼失 現在のアーケード街の位置に再建
そして大正時代に現在の地に移ったそうだ
アーケードに行ったがそれらしき痕跡は見つからなかった
▽天草一揆における木山弾正vs加藤清正
鎌倉時代から戦国時代を経て、豊臣秀吉の全国統一までの天草は
天草五人衆という5人の国衆によって治められていた
5人とは天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏だがピンと来ないと思う
支配地を見れば大分分かりやすい
大矢野はそのまま大矢野氏
上島は栖本氏と上津浦(こうつうら)氏
下島は天草氏と志岐氏
また、
大矢野氏:大蔵系
栖本氏:菊池系 上津浦氏:大蔵系
天草氏:大蔵系 志岐氏:菊池系
とそれぞれ祖とする勢力が分かれているようだ
長島氏、宮地氏という国衆もいたようだが各国衆は長年同盟や抗争を繰り返し
その中で滅亡しこの時の五人衆となったようだ
話は戻り、
秀吉の天下統一後は佐々成政の領地となったが肥後国衆一揆により成政は切腹
天草はキリシタン大名でも有名な小西行長の領地となった
(因みにこの時点で天草にはキリスト教は伝播済)
五人衆も小西行長の与力となったが宇土城の普請要請に志岐麟泉が反発
最終的には五人衆全てが反乱を起こす事態になった
これを「天草国人一揆」「 天正の天草合戦」と呼ぶ
キリシタンである小西行長は消極的であったが
日蓮宗であった加藤清正は激しく攻め立てた
本渡城に客将として来ていた木下弾正は志岐城へ向かい
仏木坂で加藤清正と交戦
怪力の弾正は一騎打ちで清正を組み敷いた
駆け付けた本渡兵は日暮れのためどちらか分からず「弾正はどちら」と聞いたが
どもり声の弾正は咄嗟に声が出ず 逆に清正が返答
結果、弾正は本渡兵の槍で落命してしまった という伝説が残る
余談だが、木山弾正の遺児とされる横手五郎も加藤清正により殺されている
詳しくは「横手五郎と首掛石」で検索
仏木坂での木山弾正の戦死が端緒となり志岐城は開城
志岐氏は落ち延び国衆としての志岐氏は滅亡した
次に攻められたのは下島の反対側の本渡城の天草氏で
本渡城に籠城し徹底抗戦し全滅した
因みに当時の天草氏当主の天草種元はキリシタンであり多くのキリシタンと共に籠城して死んだ様子はルイス・フロイスの『日本史』にも描かれている
志岐・本渡での敗戦を受け大矢野氏・栖本氏・上津浦氏は降伏し一揆は終わった
本渡城は
天草キリシタン館の場所付近にあったとされ、
キリシタン館の裏手には本渡城跡の石碑と木山弾正を祭る弾正社がある
また本渡城付近の延慶寺には
兜梅の伝承も残っている
完全に散っていた
▽天草・島原の乱における本渡と富岡城での戦い
・大蔵太子(天草氏)の元寇参戦
・天草一揆における木山弾正vs加藤清正
・天草・島原の乱における本渡と富岡城での戦い