本来なら子供向けとして発売された商品が、今やその オマケ に魅了されるのか、はたまた転売を目的としているのかは知らないけれど、大人達が群がって 爆買い する世の中になってしまったようだ…。

 

     

 

まあ、世知が無い世の中になった訳なんだけれど、私が小学校時代はそうでは無くて、オマケ菓子と言えばまず 森永チョボール でした。

 

これは 銀のクチバシであれば5枚 

そして、 金のクチバシなら1枚 

を森永に送れば、もれなく オモチャの缶詰 が送られてくるのですが、当時は子供だましのような中身に心底ガッカリしたのである。

 

     

 

そして、それと双璧にあったのが グリコのキャラメル であって、これは買えばもれなくオマケが付いてくるので、確かにオマケはチープだったけれど、こちらの方が親近感があると申しましょうか、これが擦り込まれて グリコ=子供向けお菓子 というイメージが今も付いてしまっているのです。

 

      

 

 

 

さて、そんな子供の味方であった 江崎グリコ の当時の社長が、何者かに拉致されたのは私が19歳だった1984年のことで、後に身代金が要求される事件へと発展したのである。

 

     

 

子供と入浴中だった社長を全裸で拉致するという大胆な事件であったが、犯人グループは  かい人21面相 と名乗り、後に森永や丸大食品なども同様のターゲットとされ、世間を震撼させたのは、ご同輩であれば周知の事実でありましょう。

 

加えて、身代金に対応しなかった場合の報復として、彼らは 毒入り商品をばら撒く としてきたので、本来であればお菓子が大好きな子供達がお菓子をクチに出来ない日々が続いてしまったのです!

 

     

 

 

 

 

ただ、時代は今と大きく違っていて、子供が買う菓子は 街の駄菓子屋さん がほぼ大半であって、要は店のおばちゃんらが終始監視していましたから、犯人達が寄り付くことすら困難だっのです。

 

     

※イメージ

 

対して、、不特定多数が来店するスーパーの菓子売り場は、常に警察官が貼り付くといった異常事態も散見されました。

 

     

 

そこで犯人達は、当時はまだ店舗数も客も少なかったコンビニをターゲットとして、毒入り菓子を陳列に紛れ込ませたのですが、それを実行に移したのが、お題の キツネ目の男 だったのです。

 

      

 

     

 

 

 

これは、一説では都市伝説とも言われいますが、キツネ目の男に口裂け女、はたまたネッシー、比婆ごん、ツチノコなんて未確認な情報が散乱していた時代でもありましたね!

 

 

 

さて、話を戻しますと真っ先にターゲットとなった江崎グリコの菓子は全く売れない状態になってしまい、長引けば最悪の事態にもなりかねませんでしたので、当時の国鉄 大阪鉄道管理局 に属する一部の組合が決起し、大阪本社の 江崎グリコを助けよう! と立ち上がったのです。

 

     

 

ぶっちゃけた話し、国鉄職員が束になって買ったところで屁の突っ張りにもならなのですが、江崎グリコの工場から直接出荷した菓子の詰め合わせが、当時の価格で3000円くらいだったと思うんだけれど、これを皆で買って応援しようという行動でした。

 

     

 

 

けど、当時は安月給でね…

姫路の鉄道寮に住んでたんだけれど…

 

今の貨幣価値にすると倍の6000円くらいでしたし、それならスナックで呑んでる方がええんちゃう?と言う声もありましたが、組合幹部の方から 「何としてもこの危機からグリコを救って欲しい」 と懇願されたので一箱だけ購入しましたが、さすがに一人では食べきれず、甘党の同僚なんかに配って消化しましたね、確か?

 

 

 

そして、あれから41年!

 

     

 

もう、グリコの社員ですらこんな騒動に対してそれを応援した者が居たことすら知らないと思いますが、後にこの事件は未解決として迷宮入りしてしまったのでした。   

そのまま相手にストレートに伝えてしまうと、様々なトラブルや勘違いを併発してしまうこともあるので、それを「オブラート」に包むように色んな業界で 隠語 というものがあります。

 

例えば、一時期勤めていた 高島屋 の飲食店テナントでは、客が入っている営業時間中に生理現象が発生した場合、同僚に「トイレ行ってきます!」と伝えれば、食事中のお客からすれば不快極まりないと受け止められますね。

 

ですから、ここでは トイレへ行く=仁久(じんきゅう) という隠語があって、食事休憩は有久(ありきゅう)と言って、要は部外者にその詳細を知られないようにしていました。

 

 

     

 

 

 

さて、お題の 国鉄隠語 ですが、退職してから相当な月日が流れてしまったんですが、遠い記憶を辿りつつも、当時の隠語を少しご紹介してみようと思います。

 

 

◆ キセル ◆

 

これは一般の方でもよくご存知だと思うのですが、キセルは両側が金属で真ん中が木で出来ているので、要はは最安値の切符を買って入場して中抜き= 無賃乗車 をするということなのです。

 

     

 

 

◆ にぎる ◆

 

その「キセル」を防止するための行動が「にぎる」というもので、正式には車内改札と言いますが、要は「切符を拝見します」という 検札 なんです。

 

     

 

例えば、京橋車掌区時代の受持ちだった 奈良行き快速 は、当時は天王寺を出ますと王寺までノンストップでしたので、その間を利用してよく「にぎり」ましたが、キセル乗車目的の輩がずいぶんと居りました。

 

 

◆ マグロ ◆

 

これは、いわゆる人身事故をさす隠語でして、私自身は当たったことは無いんだけれど、あまり聞きたくは無い隠語でした。

 

 

◆ ウヤ ◆

 

事故や天候の影響で列車の運行が困難になった場合、列車そのものの 運行を休止 する隠語として用いていて、 「〇〇列車ウヤ」 という風に使われていました。

 

 

 

 

 

◆ ヤオヤ ◆

 

八百屋さんと同じ発音ですが、駅務の下っ端の頃はこの言葉を聞くとテンションが下がりました。

 

すなわち、列車指令などから、「次の内回り電車、前から2両目にヤオヤ…処理ヨロ!」と情報が入りますと、バケツとモップをもってイザ出陣です!

 

 

     

 

特に終電近くになりますと多発する「ヤオヤ」は 嘔吐物 のことでありまして、よくよく見ますと色んな野菜が混ざったものに焼肉にカツ丼…

 

更には、明らかに〆のチャーシュー麵とか、間違いなく玉子とじうどんなんてのもありましたね!

 

 

     

 

◆ マル ◆

 

例えば、列車の発車が20秒遅れたりとか、職員が業務中に軽微なケガをした場合は上司に報告せず、「マル」という隠語を使ってでもみ消していました。

 

ただ、貨車の連結時に自動連結器に指を挟まれた同僚が居りましたが、駅としては人身事故扱いになると管理者らが処分を請けるので、「マル」で処理していましたが悶々としましたね。

 

 

◆ 表環状、裏環状 ◆

 

13年前のブログを参照ください。↓↓↓

 

 

 

 

◆ ひとつ、ひとつ半 ◆

 

ラッシュ時に 大阪環状線 に車掌として乗務しますと、たまに遅れが発生することがありましたが、列車がループで回っている関係上どこかで「糞詰まり」が起こっている訳です。

 

     

 

例えば、3分間隔で走っている列車であっても、鶴橋駅で客がドアに挟まって発車が1分遅れたとしますと、前とは4分開きますし後ろとは2分詰められるため、これを均等に是正すべく当時は大阪、天王寺、京橋で運転整理屋さんが常駐していて、駅の放送の隠語で 「ひとつ」とか「ひとつ半」 などと流れていました。

 

     

 

すなわち、自身が乗務している列車が停車中にこの放送が流れた場合、えてして後続の列車が遅れているのであって、例えば発車が8時10分15秒であった場合、 ひとつ=1分 なので11分15秒。

ひとつ半=1分30秒 なので11分45秒に発車時刻を遅らせなさいと言うことなので、これで均等運転に回復させるのでした。

 

    

 

 

◆ セ〇ズリ行路 ◆

 

これは、当時まだ女性車掌が居ない時代の産物と申しましょうか、前述の京橋車掌区時代には誰もが敬遠する 桜島線への封じ込め行路 がありました。

 

まあ、言うなれば西九条から桜島までの短い区間を行ったり来たりするだけの行路ですが、こちらが当時の行路表です。

 

     

 

同じ頃、まだ短い末端区間の多かった名鉄の車掌さんに聞きますと、名鉄ではこのような路線乗務の隠語は 機織り行路 と呼んでいるようでしたが、せわしなく機を織る様に似ているので妙に納得してしまったんですが…?

 

     

※イメージ

 

 

 

当区では、小刻みにシコシコとせわしなく動く様に似ていることから、何と セ〇ズリ行路 と呼ばれていましたので、誠にお恥ずかしいと申しましょうか、穴があったら入りたい気分でございます…💦

 

で、区での会話を切り取りますと…

 

「今日、おまえどこの行路や?」

 

「俺、環状やけどおまえは?」

 

「俺は最悪、またセ〇ズリ行路やで…」

 

「お前セ〇ズリ好きやから似合ってるやん…」

「シコシコマン…?」

 

「アホか…」

 

もう、男職場ゆえ放送禁止用語の連発で、今なら「ピー」が入ってしまい何を言っているのか分からないと思いますが、当時はまだユルユルの昭和の終わり頃でした。

 

「こけてもタダで起きない」 という言葉は、佐賀の人々の質素倹約な気質を表す言葉として使われることがあるようですが、せっかく乗り放題のチケットを購入したのだから、私としても隅々まで乗らないと気が済まないのである。

 

と言うことで、前回の続きである。

 

少し時系列を戻しますが、姫路駅から飾磨駅まで乗車した後、名店街を訪問したのではなく、ここより 網干線 に乗車しまして、終点の 電鉄網干駅 (現在は山陽網干駅)を目指していました。

 

     

 

 

 

ただ、言うところの幹線から外れた盲腸線のような路線ですが、そもそもは1939年に操業を開始した 広畑製鉄所 へのアクセスとして開業した歴史があるようです。

 

     

 

ただ、車窓を見てみますと全線単線であるはずなのに、将来の乗客増を見越してかどうなのか? 関西本線の名古屋口に似て、傍らに 複線化する用地 が確保してあるんですね。

 

     

 

 

 

これは、かつて山陽電鉄ではこの網干線を網干から更に延伸し、相生から赤穂を経て岡山付近まで結ぶ計画があり、もしそれが現実味を帯びた場合はコチラが本線になるため、その準備段階としての複線化用地だったのです。

 

     

※神戸新聞NEXTより

 

ですから、その岡山を見据えたための 山陽電鉄 とうい屋号なのですが、揖保川橋梁の建設に巨額の費用が必要なことなどに加え、後に国鉄赤穂線が出来たことにより幻となってしまいました。

 

 

 

 

さて、そうこうするうちに 網干駅 に到着しましたので…

 

     

 

ここより徒歩で目的地の網干港を目指します。

 

     

 

まあ、何ちゅうか特に有名な名所や旧跡がある訳でもなく、終着駅とは言うものの、どこか寂しく侘しさすら感じる雰囲気がするのですが、かつてこの駅前道路に沿って網干港まで 播電鉄道(ばんでんてつどう) という電車が走っていたのです。

 

 

     

 

※朝日新聞より

 

 

 

元々は、山陽本線から外れた龍野市や新宮町からの乗客と、地場産業でもある醤油や素麺を網干港から船で運ぶため、大正時代に運行がはじまった鉄道でしたが、後に 姫新線 が開通したことにより、旅客と貨物を根こそぎ奪われたため昭和9年に廃止されました。

 

ですから、廃止後すでに90年以上経過していますので、いわゆる 廃線跡 はほぼ無いに等しいのですが、間違いなくこの道路に沿って線路が敷かれていたことだけは事実なのです。

 

 

 

 

通称「ハマコク「こと国道250号線との交差地点です。

 

     

 

線路はこれより左に大きくカーブし、更に500mほど進むと終着駅があった 網干港駅 に到着するのでした。

 

現在の様子です。

 

     

 

恐らくですが、手前左の白いビルのところに旅客用の駅があって、更に道路と交差した右手の空地(現在は駐車場)のところで、貨物側線があって積込みと積卸しが行われていたと推測されます。

 

     

 

     

 

 

 

当時の旅客用網干港駅の様子です。

 

開業時の大正時代↓↓↓

 

     

 

廃止前の昭和9年頃↓↓↓

 

     

 

※以下、白黒写真はふるさとの軌跡(網干の歴史)より引用

 

 

 

 

お次は、橋を渡った対岸からの様子です。

 

     

 

現在はヨットなどを係留する小さな入江と言うか河川のようですが、当時は比較的大きな港であって、中型船くらいであれば優に停泊できたと言われています。

 

     

 

※かつての網干港

 

 

 

もちろんもってして、播電鉄道の痕跡は微塵も残っていませんし、廃線跡 などを訪問する折には、たいてい地元の老人などに往時の様子を聴きますと懐かしそうに話してくれるのですが、それを知っているとすれば優に100歳近くのご高齢ですので、辺りには存在していないでしょう…?

 

     

 

しかし、入江を打つ波音に耳を傾けつつ往時を偲びますと、歴史として確かなここに駅があり、醤油や素麺を積卸していた往時の繁栄が見えたような気がしました。

 

注釈/太子町鵤(いかるが)付近の個人宅の庭に、今から30年ほど前に播電の線路と路盤がそのまま残されていました。

 

 

 

 

さて、実は今回の メインディッシュはこの網干港 でして、今は斜陽化によってひっそりと佇む小さな集落に成り果てましたが、当時は泣く子も黙るほどの繁栄を極めたようでしたので、その痕跡を巡るべく、少しだけ街をそぞろ歩きしてみました。

 

     

 

こちらは、地域のランドマークとして今も現存する 旧網干銀行 の建物で、これを核として周辺には「橋本商店街」という繁華街があったようです。

 

すなわち、これほどの建物を建設できるだけの財力と人口を備えていた街であって、今は人っ子ひとり居らぬ 兵どもが夢の跡 状態でしたが、かつては相当繁栄していたことが見て取れます。

 

 

 

 

更に進みますと、 あぼしまち交流館 という建物がありましたので、館内で歴史のことなどを少し尋ねてみることにしました。

 

     

 

猛暑ゆえクーラーの効いた館内は快適そのものでしたが、2名居た女性スタッフさんに播電鉄道を含めた地元の歴史のことを問うてみますと、 「また、そのことか…」 と、半分不貞腐れた態度をとられましたので、仕方なく歴史の書物をあれこれと読んでみました。

 

     

 

かれこれ1時間近く読み漁っていたでしょうか…。

 

もちろん、見るのはもっぱら 鉄道に鉄道に関するページだけ だったものの、白黒写真ではありますが往時の繁栄ぶりをつぶさに拝見できたことは大きな収穫でしたし、ここへ来てひとつの目的が達成された瞬間でもありました。

 

     

 

しかし、こちらから頭を下げてお願いしたとしても、けんもほろろにあしらわれれば良い気はするはずもなく、全く地元の歴史にすら精通していない面々らが常駐する館であれば、これで網干港の街の評価が少しは落ちるのではないか? と疑問に思いつつ当地を後にしました。

 

 

 

 

おまけ↓↓↓

 

南海そばに阪神そば… 電鉄系そば屋は数々あれど、今回初めて 山陽そば を頂きました。

 

明石駅ラッチ外にあるお店ですが、 ミニそばセット480円 をチョイスしましたが、出汁が美味しくペロリと完食しました。

 

     

 

     

 

おわり。