誠に狭義のお話しになるんだけれど、私の通っていた小学校は 岸和田市立朝陽(ちょうよう)小学校 と言って、設立は明治35年であるので123年の歴史を持つ学校である。
もちろん、場所も変わっていない。
そして今も現存している小学校でもあるけれど、私が通っていた昭和45年頃はどんな感じの建物だったのか?を中心に、 昭和50年代の岸和田 というブログのカテゴリーに分類して書いてみようと思います。
まずは古い航空写真からご覧いただこう!
これは昭和50年頃の朝陽小学校は 赤枠で示す 通りですが、当時は第二阪和国道(現在の国道26号線)はガケもカタチも無く、東門の先で国道26号線と交差していて、児童の安全のため陸橋が備わっていました。
そして、更に当時の校舎の全貌がコチラでございます。
正門から正面には、昭和33年に竣工された 鉄筋コンクリート造 の校舎があって、これは当時の先生から聞いた話しであるけれど、火災で木造校舎が焼けたので新築されたと聞いたことがあるのですが…?
それはともかく、当時の岸和田市立の小学校の中では最新の建物と言われていたものの、まだ3割ほどの木造校舎も残っていましたし、最新と言ってもその頃の団地そのまんまの外観でした。
※イメージ
さて、時系列を整理しながら当時を回想してまいりますが、まず昭和44年に 岸和田市立朝陽幼稚園 に入学します。
当時は敷地北面に独立した木造平屋の建物が幼稚園で、その東側に園児用遊具と、更に建物北側には園用の畑があって、ここで園児らが はつか大根 を栽培していました。
また、園と渡り廊下で繋がっている途中には男女共用のトイレ、そして更に西側には専用のプールがあったのですが、入園した昭和44年にはすでに使用されておらず、以降も放置されたのままでした。
担任は安田先生という初々しい女先生でした。
今から思いますと園では一番若かった先生で、デビュー当時の松田聖子さんのような目の細い可愛い方でしたが、もしもご存命であれば80歳を超えるお婆ちゃんになっていると思います。
※イメージ
さて、先の大阪万博が開催された昭和45年に晴れて小学校1年生になった訳ですが、これは当時の不文律と申しましょうか、低学年は新しい校舎には入れず、一番南端の古ぼけた木造平屋校舎でした。
ただ、給食調理室に最も近い建物でしたが、これは当時給食で出る 牛乳は瓶入り だったので相当重く、体力の無い低学年の移動距離を考慮してここが選ばれたのだと推測できます。
2年生になりますと、給食調理室から少し離れたのですが、とりあえず鉄筋の建物に移ることが出来ました。
ただ、この緑の部分の建物は鉄筋とは言うものの、廊下や教室の床は木製で、他の鉄筋校舎より相当古びていて、飛び出した北側の教室のみに天井扇風機が備わるけったいな校舎でした。
また、この時から北側に独立してあった幼稚園が、新築で南側に移動してきました。
3年生になって、ようやく鉄筋コンクリートの新しい校舎に入ることが出来ました。
担任は、もう他界されてしまった 辻重弘先生 という方で、この先生だけが後にも先にも教室で生徒と同じ給食を食する方で、煙草も吸わず先生の見本のような先生でしたが、ひもじい戦時中を体験されたがゆえ食べ物には特にうるさく、給食を出来るだけ残さず食べなさいと常におっしゃっていました。
あと、この頃に流行っていたのが 牛乳の早飲み で、クラストップの子は6秒で飲み干していました。
さて、ここで本館と申しましようか、玄関回りの建物を少し解説していこうと思います。
ここは、他と高さが同じ一階部分にプラス、2~3階を吹き抜けにした体育館(講堂)があり、入学式や卒業式、はたまた集団予防接種の注射はここで行われました。
また、南側には用務員室のおいちゃんの詰所と併設して 焼却炉 があって、校舎内で出たゴミはその日のうちに燃やしていましたから、ずいぶんのんびりとした時代でした。
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4年生は持ち上がりでしたが、5年生と6年生の担任は、教室でも煙草をプカプカ吸う ヘビースモーカー で、現在では信じられない光景が昭和の学校ではあったのです。
加えて、昼食は教室で生徒と給食を取らず、職員室で出前を取って店屋物を食べていましたが、特に6年生の担任はえこ贔屓の激しい方で、恒例の 席替え をしたところで、自分の好みの女生徒を教壇の近くの席に配し、男子らは後ろに追いやる「いかさま」を平気で行う方でしたので、個人的には気に食わない先生でしたね!
光化学スモッグありいの…
裸になって太陽浴びろだの…
すり剝いたら赤チン塗りいの…
と、いささかむちゃくちゃな時代でしたが、そんな時代を生きて来て今に至るのでした。