中津城


              【築城年】1588年 【築城者】黒田孝高 【遺構】郭・石垣・堀

              【形態】平城 【別称】丸山城・扇城




【歴史】

これまで豊前国の国衆の城跡を中心に紹介してきましたが、ここいらで彼ら国衆に対峙した豊臣系大名である黒田孝高の居城、中津城を紹介しようと思います。


1587年(天正15年)の豊臣秀吉による九州平定後、豊前国12万石を与えられた黒田孝高は、当初同国の馬ヶ岳城(福岡県行橋市・みやこ町)に入りますが、豊前国衆一揆の鎮圧後、新たな統治拠点として周防灘に面した中津の地に新城を築きます。

これが現在の中津城です。


1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦後に黒田氏は筑前国名島に転封となると、代わって中津城には丹後田辺から細川忠興が入ってきます。

当初、中津城を居城とした忠興でしたが、1602年(慶長7年)、家中の混乱や交通の利便性を考えて同国の小倉城に拠点を移しました。


空城となった中津城ですが、以後は小倉城の支城として位置付けられ忠興の息子の忠利が城代として入り、存続。

細川家にとっては中津城はかなり重要視した城だったようで、1615年(元和元年)に出された一国一城令の際には忠興が幕府と交渉して自身の隠居所という名目でその存続を認めさせています。


なお、細川氏の時代には中津城及び城下町は整備が進み、現在見られる中津の街並みの原型はこの頃に完成したと云われています。


1632年(寛永9年)、細川氏が肥後熊本に転封となると、代わって譜代大名の小笠原氏が入城。

さらに1717年(享保2年)以降になると奥平氏が入城し、以後奥平氏が明治維新まで中津城主であり続けました。


明治維新後、中津藩士福沢諭吉の進言もあり、中津城は早い時期から急速に解体が進みます。松之丸御殿が大分県中津支庁として使用され残っていましたが、1877年(明治10年)の西南戦争で西郷軍に与して蜂起した旧中津藩士の放火により焼失してしまいました。


【構造】

中津城は、山国川から分岐した中津川河口に築かれた平城ですが、周防灘が近いため「日本三大水城」(今治城・高松城・中津城)の1つに数えられています。


城は本丸を中心に、西にL字型に二之丸を配し、本丸と二之丸の南側に三之丸を配するという構造で、特に本丸には鉄門、二之丸には水門という川に降りるための門が2つ設置されている点から、中津川の水運を強く意識した城だったと云えるでしょう。


なお、現在本丸には模擬天守が建っていますが、江戸時代には天守は存在していませんでした。とはいえ、黒田・細川時代のまでさかのぼると実態が不明な点が多いため、初期の段階では天守が存在していた可能性はあります。



【感想】

大河ドラマ「軍師官兵衛」のおかげで一躍脚光を浴びるようになった城。


近年では発掘調査も進み、本丸の南側にあった黒田時代の堀と石垣も復元されました。

昔は模擬天守があるという残念な城というイメージが強かったですが、上述の石垣が九州における織豊系城郭の中では最古級のものという評価がされる等、だいぶ評価が変わってきてるんじゃないかなと思います。


ちなみに最近復元された黒田時代の堀と石垣は残念ながら写真に撮り忘れてしまいました…

いずれは撮り直して再度投稿したいものです。



【住所】

大分県中津市二ノ丁



【交通アクセス】

JR日豊本線中津駅下車。徒歩25分。



←本丸北面の石垣


  中津城本丸北面石垣には、増改築の痕跡が見られ

  ます。

  左側が細川時代・右側が黒田時代の石垣です。











←本丸水門の石垣


  本丸の下段には、中津川に向けて水門が設けられ

  ていました。

  隅の部分に大きな石が使われているのが特徴で

  す。









←生田家屋敷門


  中津城の三之丸には江戸時代、家老屋敷が密集

  していました。

  この門は奥平家家老の生田家の屋敷の門で、中津

  城関連する唯一の現存建築でもあります。







←大手門


 大手門は中津城三之丸西側に設けられていました。

 往時は枡形虎口を形成されていましたが、明治以後

 に撤去され、南側の石垣しか残ってません。










←模擬天守から見た中津川と周防灘


 中津城が非常に海に近い場所に築かれている事が

 わかります。

 城内の水堀も潮の干満の影響を受けて水位が変わ

 るようになっています。







【訪城年月】2014年5月・9月