広津城
【築城年】不明 【築城者】広津氏? 【遺構】郭
【形態】丘城 【別称】不明
【歴史】
広津城は、福岡県と大分県の県境を流れる山国川の左岸、福岡県吉富町に位置する中世城郭です。
築城者・築城年代共に不明ですが、中世の吉富町一帯は豪族の広津氏が治めていた事から同氏によって築城されたものと思われます。
元は宇佐神宮の関係者だったという広津氏ですが、戦国時代に入ると周防国(山口県)の戦国大名大内氏に仕え、上毛郡代等の要職を務めます。
さらに大内氏滅亡後は豊後国(大分県)の大友氏の支配下に入り、筑前国(福岡県)の秋月氏を撃退する等活躍しますが、1587年(天正15年)の豊臣秀吉による九州平定で当時の当主広津鎮種は大友氏の支配下から脱し、今度は新しく豊前国12万石を与えられた黒田孝高に仕えます。
…とこのように戦国時代における中小クラスの豪族の生きざまを垣間見れる広津氏ですが、黒田氏による支配政策には積極的に参加しており、1587年(天正15年)秋に勃発した豊前国衆一揆では、国衆側ではなく黒田側に味方しています。
一揆鎮圧後、広津氏はなぜか黒田氏から豊前小倉城主の毛利勝信に仕えますが、関ヶ原合戦後に毛利家が改易されると、再び黒田氏の下に戻り、子孫は福岡藩士として存続しました。
なお、広津城自体は1587年(天正15年)に廃城となったとされていますが、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦の際に、豊後国から豊前国に転線中の黒田孝高が陣を置いている事から、ひょっとするとその頃まで存続していた可能性も捨てきれません…
【構造】
山国川右岸の天仲寺山に築かれた城ですが、標高が低いので山城というよりも丘城といった方が良いでしょう。
肝心の縄張りですが、江戸時代以降、城跡は中津藩小笠原家の墓所として手を加えられてしまったため、現在ではよくわからなくなっています。
しかし、山国川を眼下に望む立地から、ここが中世の河川交通を掌握するために築かれたという事が実感出来ます。
【感想】
城跡というよりも中津藩主小笠原家の墓所としての色が強いところです。
明確な遺構はありませんでしたが、中津や上毛一帯を望む事が出来るので、立地の重要性がわかる城跡です。
【住所】
福岡県築上郡吉富町広津
【アクセス】
JR日豊本線吉富駅から徒歩15分
←広津城本丸?
天仲寺山で一番標高が高い場所で、本丸を置いた
としたらここか?
現在は中津藩主小笠原家の墓所となっています。
←中津方面を望む
広津城から山国川を隔てて中津方面が一望出来ま
す。
この写真では、わかりづらいですが、かすかに中津
城の模擬天守も見えます。
【訪城年月】2014年10月