●愛の歌 歌ってもいいかなって思い始めてる。(サカナクション「ドキュメント」)
マインド・ボディ・コーディネーション第5弾「セルフエスティーム瞑想」では、サカナクションの山口一郎さんについても取り上げました。
彼が2011年に製作した「ドキュメント」という曲を聴くたびに、ああこうして、シーンのトップを走り続ける人たちもまた、自分という存在と闘い続けているのだな。
決して逃げることはできないんだな。
嘘はつけないんだな。
自分という存在を、丸ごと受け入れる他に、生きる方法はないのだな…
そんなふうに感じます。
売れれば売れるほどに、自分という存在と、対峙せざるを得なくなってくる。
これは、アーティストだろうが経営者であろうが変わることはありません。
初めのうちは、ある程度のお金や人気や、名声を手に入れることで何者かになれた気がするものです。
しかし、サカナクションほど売れていくとおそらく、やがてそのような外部的な要素は何の意味も持たなくなる。
むしろ、こんなものが欲しいのではなかったと絶望する。
なぜ、音楽をやるのか?
自分は何を求めているのか?
自分とは何か?
自分はなぜ、こんなに意味もなく、苦しいのか…
そうやって、もはや自分に嘘がつけない領域にまで、追い込まれるのです。
真剣に生きる人ほど、そこから目を逸らすことは、自分自身を裏切ってしまうことだと分かっているから。
山口さん作詞作曲の「ドキュメント」という曲があります。
「今までの僕の話は全部嘘さ、この先も全部嘘さ。何か言って、何か聴いて僕は生きてる。このままでいいのかな?」
(サカナクション「ドキュメント」)
なんというか、その漠然とした悲しさや寂しさ。
人気の絶頂であるにも関わらず、誰からも理解されないという不安。
無意識に、自分すら気づかないうちに、嘘を嘘で塗り固めている自分…
このままだと、この先も自分は、全部嘘で生きていくかもしれない。
いやむしろ、そういう生き方しか知らない。
虚勢を張って、嘘をついて、強いふりをして、できる人間だと。
そんなふうに上手く演じればいいのかもしれない。
でももう、そんなパワーは残ってはいない。
すっかり疲れて、渇ききってしまっている。
欲しいものが何かもわからず、夜もまともに寝られずに、満たされることはない。
疲れてる夜は一人で僕眠るんだ
だけどすぐに目が覚め
飲みかけの水を全部飲んでしまった
なのに残った乾き
このままでいいのかな?という、漠然とした感覚。
だめだと思いつつも、じゃあ具体的に、何をどうすりゃいいか?なんてのは全く観えないままに、とにかく日常を走り続けるしかない。
何というかまさに「ドキュメント」
人気の絶頂に作るような歌ではないのだけれど、でも、人気の絶頂だからこそ、作れた作品のような気がします。
Goalを達成してしまった時に、本当に自分が手にしたいものがここにはないと、気づいてしまったかのような。
人気者になれば、売れれば、金があれば、有名になれば、どこかに行ける気がした。
しかし今、目の前には、何も変わってなどいない自分がいる。
山口さんの情報空間における格闘(=瞑想空間)をまさに具現化したような歌です。
ずっと前の君の思い出は
どこか昔の自分を見るようで
山口さんご自身が、まさに自分から逃げられなくなった時、外側の世界に依存するのをやめた時、自分を深く見つめることを始めた時、初めて、ああ…ずっと前の君というのは、実は、昔の自分そのものじゃないかと気がつく。
どこか似てるなと、気がつく。
すぐに何かに負けて涙流す
君と僕は似てるな
これはまさに、自分の内部表現世界において、弱く、拙く、儚く、幼く、そして愚かな存在としての自分を、観測したからこそ始めて「君」が観えたというような感覚。
そして、そんな自分と似ている「君」に、捧げる曲。
すぐに負けて、泣いてしまう。
涙を流してしまう。
そんな僕と君は似ていると。
それでいいんだと。
君も弱いように、僕も弱い存在なのだからという、世界への愛の告白に聴こえます。
「この世界は僕のもの」なのに「どこからか、話してる声がする」のです。
僕の世界なのだけれども、僕のもののはずなんだけれども、僕以外の存在が、その声が、確かに存在している。
愛の歌
歌ってもいいかなって思い始めてる。
シンガーって普通は、すぐに「愛」について歌いたがります。
でも山口さんはここまできて、ここまで売れてきて、そしてここまで自分という存在の弱さを知って、君という存在の弱さを知って…
そして初めて、自分もそろそろ、愛の歌を歌ってもいいかなって、思い始めてるのです。
いやむしろ、自分が今まで歌ってきた曲というのは、愛の歌ではなかったかもしれないということに気がつくのです。
そんな、深い絶望と希望がまさに「ドキュメント」です。
決してカッコ良くはないし、美しく綺麗なものではない「ドキュメント」
でもそれを、きちんと歌うことで、美しくする。
これがまさに、アーティストの役割です。
この楽曲はまさに、「愛の歌をそろそろ歌ってみたい」という、山口さんの深い絶望と新たなる希望の曲に聴こえます。
今までの、押し付けがましい何かではなく、僕の世界と君の世界を繋ぐ「愛の歌」を、歌ってもいいかなって思い始めるには、どれだけの苦しみを乗り越えてきたのでしょうか。
これは、マインド・ボディ・コーディネーターという仕事にも、当てはまるような気がします。
GoalNoteに、どれだけ「内部表現書き換えが上手くなりたい」と書いただろうか。
「この技術で世界を救いたい」
「この技術で、もっと人々の力になりたい」
「もっともっと、多くの人々に…」
「立派になるんだ」
「すごいやつになるんだ」
何百回も、何千回も、同じことをノートに書いて。書いて。書いて。
でも、書いていくうちに、いやもしかしたら本当は、自分自身が、一番救われたいのではないかな?なんていう驚愕の事実に気づき始めたりする。
ああ、「今までの僕の話は全部嘘さ」ってつい、言いたくなる。
そんな自分の弱さや苦しさ、辛さ、悲しさや寂しさと、対峙せざるを得ない状況に追い込まれていく。
いや、そこに存在している「自分」を、無視し続けていたことに気がつく。
内部表現書き換えが上手くなればなるほどに、自分という存在、自分の心、自分の身体から、逃げられないのだということに気がつき始める。
自分を救うということが、他人を救うということに繋がるんだということに気がつき始める。
「この世界は僕のもの」のはずなのに「どこからか話してる声」が聴こえる。
そうか。
君と僕は似てるな…
あの怒り続ける上司も。
蔑んでくるあの先輩も。
貶め続けてくるあの人たちも。
心の中で少しバカにしてたあいつも。
自分よりも下だなんて思ってしまっていたあいつも。
愛してくれなかった父親も。
可愛がってくれなかった母親も。
癇癪ばかり起こした暴力野郎も。
支配欲が絶えなかったあいつも。
誰かと競ってなきゃ不安なあの子も。
誰かと比べ続けなきゃ息ができないこの子も。
ああ、なるほど。
君と僕は似てるな。
ああ、もしかしたらこれが、愛ということなのかもしれんなぁ…
そのことがわかったから、歌い始めてもいいかなと。
サカナクションの「ドキュメント」は、そんな、セルフエスティームの先に存在するような歌に、聴こえるんですよね。
その苦しみや悲しみや痛みを乗り越えたその先に、愛の歌を歌っちゃう奴らがいるという光。
でも、そこまでたどり着くには、多くの時間が必要かもしれませんね。
でも、諦めなければきっと、そこにたどり着くことができます。
ちなみに僕は、山口さんの弾き語りバージョンが好きで、多分YouTubeで1000回くらい聴いてます(^^)
壮絶なうつ病発症から2年、山口さん復帰のソロツアーでの「ドキュメント」です。
DK WORKS Goal達成のための心身を創る「マインド・ボディ・コーディネーション」