
舩坂 弘
不死身の分隊長と呼ばれ、ネットではルーデル、シモヘイヘと並び3大超人として語られることが多い。
アンガウルの戦いにて擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷。
3日目には米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやく頼みの軍医がやって来るも、傷口を一目見るなり自決用の手榴弾を手渡して去ってしまう。
しかし、瀕死の重傷を負いながらも弘は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復している。
その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった。
これについて「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。
絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、 鬼神の如く奮戦を続けていた。
しかし激戦の果てに腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、自決を決意し手榴弾の信管を抜くも不発。
戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。
手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。
この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。
また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。
その3日に米軍の野戦病院で蘇生する。
身柄を拘束されてからも、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。
1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している。

菅野 直
公認記録では25機撃墜となっているが、実際は48とも72とも言われる。
1943年、教官との空中模擬戦では、模擬戦で教官機とあわや接触という状態を何度も繰り返し、また着陸禁止区域に着陸を試みたりするなどで 飛行機を何機も壊し、「菅野デストロイヤー」というあだ名がつく。
1944年には南洋戦線に進出、難攻不落と言われたB-24の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばして撃墜したり、一度に2機のB-24を撃墜するといったこともあった。
また乗機の胴体に指揮官認識マークとして黄色の帯を描いていたことから、 その戦闘ぶりを見た米軍パイロット達の間では「イエローファイター」と渾名され怖れられていたという。
当初、最初の神風特攻作戦の分隊長として任命される動きがあったが、菅野は零戦のテストのため内地におり、それによってフィリピンにいた関行男大尉が分隊長に任命された。
後にこの経緯を聞いた菅野は「オレが関のところをとるんだったんだがなあ…」と寂しげに呟いたという。
ある時、目的地まで輸送機により運ばれる道中、敵の奇襲に合う。
輸送機のパイロットはパニックに陥りもはやここまでと思われたが、「俺に貸せ」といい菅野が操縦桿を握り、墜落すれすれのスタント飛行により脱出。
その後にルバング島に不時着し救援の到着するまでの数日間、 原住民に対して島の王様のように振る舞っていたという。
1945年には 精鋭部隊である第343海軍航空隊に転属。空の要塞と言われたB29に対し、前上方より背面急降下でB-29のコクピットのみに狙いを定め、 搭乗員の顔が見えるほどまでに接近し、接触寸前で交わしていくという攻撃方法を編み出す。
1945年8月1日の戦闘でP51に撃墜され、戦死したとされる。
343空時代の菅野の愛機紫電下改、A15号機

