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武藤 金義

撃墜数は30機。

日中戦争から戦闘に参加し、1945年7月末、呉軍港空襲のため200機のアメリカ軍艦載機が来襲。

これを迎撃するため、200機の僚機とともに大村から出撃し、武藤は激戦の中で消息を絶った。

1945年2月、厚木基地上空に大量に飛来したF6F編隊の一部12機に
オレンジ塗装の試作紫電単機で挑み、2機撃墜の戦果を挙げた。

この戦闘は基地からも見え、まるで一乗寺下り松の決闘を思わせることから「空の宮本武蔵」との異名を取ることとなった。

1945年の6月に坂井三郎と交換という形で当時の精鋭部隊、第三四三航空隊に異動。

その後の戦闘で戦死したことから、坂井三郎は武藤が自分の身代わりになって死んだのではないかと終生気に病んでいたという。

この時の武藤は隊長である菅野直大尉の護衛を任されていて、自分の思うように戦闘できなかったために撃墜されたのではないかと坂井は語る。

また、武藤の腕前を非常に高く評価しており、自由に格闘戦をやらせたら絶対に武藤が負けることはないとも語っている。

ちなみに、アニメ「ストライクウィッチーズ」の主人公、宮藤芳佳のモデルはこの人物である。

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赤松 貞明

記録されている撃墜数は27機だが、酒に酔った時には350機撃墜と豪語していた。

日中戦争から終戦まで戦い抜く。仲間からは「松ちゃん」と呼ばれ親しまれた。

あの坂井三郎は赤松のことを「大先輩赤松中尉は頭脳明晰、気力体力ともに抜群で柔道、剣道、弓道、相撲合わせて十五段、水泳も抜群の猛者で、 全盛期には日本海軍戦闘機隊では戦技、右に出る者はいないと言われるほどの強者」

「下士官時代には勇気あまって若干の粗暴の振る舞いありと批判されたこともあったが、おくればせながら准士官、特務士官と進級するうちに人格を増し、 太平洋戦争に入っても老練、なお日本海軍戦闘機隊に赤松ありと認められ、部下、後輩たちからも尊敬畏敬された強者であり、よき指導者でもあった」と評している。

その豪傑っぷりは凄まじく、75機のP-51の大編隊に単騎で挑み、1機を確実に撃墜し包囲網を突破し無事に飛行場に着陸するなどの離れ業をやってのける。

更に終戦間際の7月、零戦より性能が劣るとされた雷電を操縦し相模湾上空でF6Fと渡り合い、格闘戦の末これを撃墜する。

その後燃料切れとなり、横須賀基地に不時着。

「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と叫んで、厚木基地に飛び去っていったと言う。

これに当時横須賀基地に居た坂井三郎は、「迎撃戦闘機である雷電でF6Fと互角に渡り合える戦闘機パイロットは、後にも先にも赤松中尉のほかにはいないだろう。このときの赤松先輩の勇姿を、私は今も忘れない。」と赤松の豪傑ぶりに舌を巻いている。

赤松は回想で「中国戦線で私は250機撃墜したが、私より多かったものが二人いたが、みんな南方で戦死した」と述べている。
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岩本徹三

撃墜数は202機で、最強の零戦パイロットと謳われる。

岩本の次に多く敵機を落としたのが西沢広義の87機であり、いかに200という数字が凄まじいかが分かる。

日中戦争から終戦まで幾多の死線を乗り越え、生き抜く。

搭乗員は坊主刈りを強制されていたが、写真の岩本は長髪である。

これは当時の司令が岩本を例外扱いとし、それを認めたという。

沖縄戦開始直前に、米軍機・米艦隊のうろつく慶良間諸島に単騎で夜間強行偵察を行うという任務を受けるが、その時岩本は千鳥足になるほど酔っ払っていた。

しかし出撃、遊弋する米軍艦艇を銃撃し、大損害を与え帰還したというエピソードをもつ。

1953年、盲腸を医師が腸炎と誤診し腹部を大手術すること3回、さらに入院中に背中が痛みだし原因不明のまま麻酔をかけず4,5回大手術を行い、最後は麻酔をかけずに脇の下を30cm程度切開して肋骨を2本取り出し、敗血症を併発して壮絶な死を遂げる。