
赤松 貞明
記録されている撃墜数は27機だが、酒に酔った時には350機撃墜と豪語していた。
日中戦争から終戦まで戦い抜く。仲間からは「松ちゃん」と呼ばれ親しまれた。
あの坂井三郎は赤松のことを「大先輩赤松中尉は頭脳明晰、気力体力ともに抜群で柔道、剣道、弓道、相撲合わせて十五段、水泳も抜群の猛者で、 全盛期には日本海軍戦闘機隊では戦技、右に出る者はいないと言われるほどの強者」
「下士官時代には勇気あまって若干の粗暴の振る舞いありと批判されたこともあったが、おくればせながら准士官、特務士官と進級するうちに人格を増し、 太平洋戦争に入っても老練、なお日本海軍戦闘機隊に赤松ありと認められ、部下、後輩たちからも尊敬畏敬された強者であり、よき指導者でもあった」と評している。
その豪傑っぷりは凄まじく、75機のP-51の大編隊に単騎で挑み、1機を確実に撃墜し包囲網を突破し無事に飛行場に着陸するなどの離れ業をやってのける。
更に終戦間際の7月、零戦より性能が劣るとされた雷電を操縦し相模湾上空でF6Fと渡り合い、格闘戦の末これを撃墜する。
その後燃料切れとなり、横須賀基地に不時着。
「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と叫んで、厚木基地に飛び去っていったと言う。
これに当時横須賀基地に居た坂井三郎は、「迎撃戦闘機である雷電でF6Fと互角に渡り合える戦闘機パイロットは、後にも先にも赤松中尉のほかにはいないだろう。このときの赤松先輩の勇姿を、私は今も忘れない。」と赤松の豪傑ぶりに舌を巻いている。
赤松は回想で「中国戦線で私は250機撃墜したが、私より多かったものが二人いたが、みんな南方で戦死した」と述べている。