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原田 要

撃墜数は9機。初陣を支那事変でむかえ、1941年9月に空母蒼龍の乗組員となり真珠湾攻撃作戦では機動部隊上空直衛任務に就いた。

歴史的大敗北を期したミッドウェー海戦では5機の敵機を撃墜するが着艦する空母がなく海上に不時着、4時間漂流した後に駆逐艦に救助される。駆逐艦の甲板には手足が無かったり全身火傷を負った重傷兵が大勢おり、自分は何ともないからその負傷兵達を何とかしてやってくれと軍医官に言うと

「こういう人は手をかける人手もないしかけてもどっちみちダメなんだから、君のように手をかければ飛べる人間を先に治療するんだ」と言われ、 我々は人間ではなく、銃のように修理すれば弾を撃てる機械から直して、銃身が折れ曲がって弾の出ないものは捨ててしまう。

自分達は兵器の一部であり、これが戦争なんだと感じたという。

1942年10月、激戦地ガダルカナル島にてアメリカ軍のF4F戦闘機と対峙。

敵機に白煙を噴かせるも自らも左腕に被弾を受ける。

重傷を負い眼下の椰子林に不時着し数日間ジャングルを彷徨うが、無事に海軍基地に辿り着く。

同基地にて懸命の治療を受けるものの傷は悪化し、マラリア、デング熱も併発し生死の境をさまよった。

舟艇に乗せられガダルカナル島を脱出し、約1週間後にトラック島の第四海軍病院で意識を取り戻した。

内地送還後は教官を務める。
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関 行男

最初の神風特攻隊の指揮官に任命される。

指揮官になる話を持ちかけられたとき、関はしばらく間を置いた後、「ぜひ、私にやらせて下さい」と承諾した。

関大尉の遺書

「西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。 武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、 その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。 本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。 皆様御体大切に。父上様、母上様」

関は出撃前、報道員にこう話をしている。

「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番を命中させる自信がある。ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKAのために行くんだ。命令とあらばやむをえまい。日本が敗けたら、KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう」

50番とは500キロ爆弾であり、KAとは海軍の隠語で妻を指す。

この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満と解釈され、後半は妻や母のことを想起した発言とし、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言と解釈する者もいる。

1944年10月25日、関率いる敷島隊6機は、フィリピンのマバラカット西飛行場を発進。

突入に成功、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈、他にも数2隻の護衛空母にも損害を与え大戦果を挙げた。

関大尉はセント・ローに突入したとされるが、カリニン・ベイに突入したとする説もある。

関大尉はその後軍神として崇められるが、戦後に国民の特攻隊員に対する意識は一転。

国賊として批判され、関大尉の母は石を投げつけられたという。

その後の昭和28年秋、母は病によりこの世を去った。「せめて行男の墓を…」との遺言によって、翌年10月25日の命日にようやく関大尉の墓碑がつくられた。

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檜 與平

撃墜数は12機。

戦隊長・加藤建夫中佐の下、加藤隼戦闘隊として有名な帝国陸軍飛行第64戦隊の隊員を務めた経歴を持ち、敵戦闘機との空戦によって右脚を切断されるが、義足を付けて戦列に復帰した「義足のエース」として知られる。

1943年11月、米陸軍機の新鋭機P-51から奇襲攻撃を受け瀕死のダメージを負うが、無事に帰還。

しかし負傷により右足下腿部切断の手術を受け、療養のために日本内地に帰国。

陸軍病院にてジュラルミン製の義足を履く。

空中勤務者には不可欠の足を失っているため一時は復帰の道を絶たれるが、檜自身の強い意思と文字通り血の滲む懸命なリハビリによって空へと戻ることを認められる。

1945年7月、伊勢湾上空で再びP-51と空戦しこれを撃墜、右足の借りを返すという逸話を持つ。