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関 行男

最初の神風特攻隊の指揮官に任命される。

指揮官になる話を持ちかけられたとき、関はしばらく間を置いた後、「ぜひ、私にやらせて下さい」と承諾した。

関大尉の遺書

「西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。 武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、 その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。 本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。 皆様御体大切に。父上様、母上様」

関は出撃前、報道員にこう話をしている。

「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番を命中させる自信がある。ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKAのために行くんだ。命令とあらばやむをえまい。日本が敗けたら、KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう」

50番とは500キロ爆弾であり、KAとは海軍の隠語で妻を指す。

この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満と解釈され、後半は妻や母のことを想起した発言とし、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言と解釈する者もいる。

1944年10月25日、関率いる敷島隊6機は、フィリピンのマバラカット西飛行場を発進。

突入に成功、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈、他にも数2隻の護衛空母にも損害を与え大戦果を挙げた。

関大尉はセント・ローに突入したとされるが、カリニン・ベイに突入したとする説もある。

関大尉はその後軍神として崇められるが、戦後に国民の特攻隊員に対する意識は一転。

国賊として批判され、関大尉の母は石を投げつけられたという。

その後の昭和28年秋、母は病によりこの世を去った。「せめて行男の墓を…」との遺言によって、翌年10月25日の命日にようやく関大尉の墓碑がつくられた。

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