クンダリーニの覚醒には二種類ある。 
一つは霊的な覚醒、もう一つは超常的な覚醒である。

この二つの違いについて、OSHOは次のように述べている。 

    

 『あらゆる霊的な達成には、よく似た偽物がある。霊的な体験には、まがいものである偽物が必ずと言っていいほどついてまわる。
真のクンダリーニがあれば、偽りのクンダリーニもあり、本物のチャクラがあれば、偽りのチャクラもある。そのふたつの違いは、本物の体験は霊的な次元で起こり、偽りのものはサイキック、つまり心理的(メンタル)な次元で起こるということだ。』 
(OSHO講話録『奇跡の探求Ⅱ』第二章)



『本物の体験は霊的な次元で起こる。』


“霊的”とは何か? 

まず、“霊”とは、「神の聖なるエネルギー」のことを言う。 
エネルギーであるので、当然、霊に人格など無い。 
霊は神の力であり、神は唯一の全能者である。 

霊は我々の生命力としても働く。 
よって、人が死ぬと、霊は神へ返される。 
神が霊を取り去ると、人は死ぬ。 
(詩編104編29節, 伝道の書12章7節/聖書)

ちなみに、OSHOは「神自体が人格を持たないエネルギー」だと解釈しており、「神のエネルギー」でなく、「神はエネルギー」と表現するほうが適切だとの意見を示している。 

私自身は、「神は人格と知性を持つ実在者」であり、「霊はその神が持つエネルギー」だと解釈している。 
なぜなら、人格や知性という概念を持たない存在に、人格と知性を持つ人間を創造するのは不可能だからである。 

閑話休題、つまるところ、“霊的”とは、「神の聖なるエネルギーの働きを反映した状態」を意味する。
そして、“霊的な人”とは、「神の聖なるエネルギーの働きを自覚している人」のことを指し、 “霊的な次元”とは、「視点や意識の主体が霊的なレベルにあること」を表す。 
七つの身体で言えば、第五身体、第六身体がそれに該当する。 
第五身体は35歳、第六身体は42歳で成長に至る。

以上のことから、本物のクンダリーニ覚醒は、霊的な体を成長させた者に起こる現象だと言える。
チャクラの霊的覚醒も同様である。

では、もう一方の、『偽りのものはサイキック、つまり心理的(メンタル)な次元で起こる』とはどういうことか? 

サイキックもしくはメンタルな次元に該当するのは、第四身体である。 
第四身体は28歳で成長に至るが、このときにクンダリーニの目覚めが起こり、数々の超常的な現象を体験する。 


それらの体験は偽りだったのだろうか? 

以下、OSHOの弁である。 


    

『第四身体でのクンダリーニの経験は、超常的(サイキック)なものだろうが、偽りというわけではない。超常的なものには真の超常的な状態と、偽りの超常的な状態がある。私が、クンダリーニは単に心的(メンタル)な経験でしかないと言う時、それが必ずしも偽りの経験だという訳ではない。心的な経験は真正でもあり、偽りでもあり得る。』 

(OSHO講話録『奇跡の探求Ⅱ』第三章) 



霊的な覚醒には、霊的な身体が必要である。 
その霊的な身体が未発達である以上、第四身体での体験に霊的な価値はない。 
どれほど似た体験をしたとしても、霊的には、“まがいもの”でしかないのである。 

しかし、だからと言って、その体験自体が偽りであることには決してならない。 
それどころか、霊的な身体の成長に入るには、第四身体でのクンダリーニの目覚めが不可欠になる。 
霊的な次元でクンダリーニが目覚め、各チャクラを活性化しながら上昇に至ることで、シッディと呼ばれる霊的な超能力が開花するが、それらの能力は、超常的な覚醒をきっかけに第四身体で開発されるからである。
 
そのため第四身体では、本物と見紛うような“偽”を経験する。 
偽のクンダリーニ覚醒、偽の霊的能力、偽のツインレイ、等。 

たとえば、ツインレイ同士で交わされるテレパシー会話に似た現象も体験する。 
相手は、イマジナリーコンパニオンたちだろうか? 
それとも別人格の自分たちだろうか? 
第四身体での会話は、はっきりとした声が頭の中で聞こえるという特徴がある。
それに対し、ツインレイ同士のテレパシー会話は、鼻から喉のあたりで感じる“音のない声”で交わされる。 

その他、様々なファンタジーを体験するのも、想像力を司る第四身体ならではと言える。 

但し、だからこその危険も生じる。 
本当の意味での偽りの体験も多いにあり得るのである。 
この領域に先入観や期待を持って入ると、主観的な世界であるだけに、偽りの感覚を生み出してしまい易い。 
さらに、欺瞞の可能性も大きくなる。 
この欺瞞は他人だけでなく自分に対しても起こる。
そして、


    

『もっとも危険なことは、欺いている本人が必ずしも自分が欺いている事実に気づいている訳ではないということだ。 知らず知らずのうちに、他人同様自分自身も欺かれていることもあり得る。 この段階では、事があまりに微妙、かつ稀で個人的なため、その経験の正当性を調べる術がない。 だから、当人にもそれを想像しているだけなのか、本当に起こっているのかを断言できない。』 

(OSHO講話録『奇跡の探求Ⅱ』第三章) 


 とのことであるので、注意が必要である。