「最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常」 二宮敦人 | 映画物語(栄華物語のもじり)

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満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

★★★★☆

 そうか、大学って勉強するところだったのか! うっかりうっかりという話。

 

 私が人生で最も遊んだのは、大学時代である。小・中・高と特に勉強を頑張っていたということもないので(初めて試験勉強なるものをしたのは中三の一学期の中間テストからだし)、それなりに遊び重視・勉強軽視の人生を送ってきた。が、そんな18年間の人生など屁の河童であったと位置づけるくらい、大学生のときは遊んだ。本気で遊んだ。遊び倒した。遊ぶために大学生になったと言っても過言ではない。そして、「日本の大学は入ってしまえば卒業は簡単」という厳然たる事実を身を以って体験した。大学で学んだ知識というのは本当に、語弊ではなく本当に微々たるものなのだが、それでも卒業できるのが日本の文系大学の現実である。あれだけ遊び倒した私が言うのだから間違いない。講義に出席し、指定された文字数を文字で埋めて、まがりなりにもレポートなるものの体裁を形作って提出さえすれば、それで何とでもなる。単位がもらえるギリギリの成績でも、逆に言えば単位だけはもらえる。先生たちもレポートという基準が曖昧な課題で単位を落とすと後がめんどくさそうと思うのか、形式的な要件を満たしていればとにかく単位はもらえる。つまり、一般的な文系大学を落第したり単位が足りず留年したりする人というのは、そうした最低限の努力すら惜しんだ者たちであるといえる。しかし――そうした努力を惜しんでしまう気持ちもまた理解できてしまうのが、日本が抱えるこの病巣の根が深いところである。いつの間にやら講義をあと何回休めるのかを常に計算している自分がいたのがその証拠である。年間数十万円以上を払って如何に行かないかを計算しているのだから、世も末である。ゴルフじゃないんだから(一日1万円以上を払ってコースに出て如何にスウィングしないで済むかを競うスポーツ)。当然ながら、一番不幸なのは学費を払ってくれた人である(多くの場合が親である)。本当に申し訳がない。

 そんな人間なので、大学時代にきちんと勉強していたという人に会うと、素直に尊敬してしまうのである。一切の皮肉なく。

 理系の大学ならばともかく、文系の大学、それも教育大学などではなく経済学部や文学部、人文学部やカタカナがやたらと並んだなんちゃらコミュニケーション学部みたいな文系の学部に所属しながら、精力的に勉学に身を投じたという人に会うと、自分の人生を非常に恥ずかしく思うのである。というか、「もうちょっとしっかり勉強していたって、同じだけ遊べたことね?」思うのである。遊びすぎて時間がなかったわけでは決してなく、遊びすぎて勉強に身が入らなかっただけ――つまりは自分の不甲斐なさ、ショボさを突き付けられるのである。

 大学という場所は、いうまでもなく勉強に身を打ち込む場である。そのことに気付けなかった4年間。そのことにいまさら気付いた30代半ば。もう少し頑張っていたって損はなかったと思う日々。

 そんな想いがあるからか、本著の中に登場した「音楽に身を捧げる学生」「美術に没頭する学生」の話を読んでいるだけで、身につまされる想いが込み上げてくるのである。一つのことを修めようと努力をすることはとても人間を魅力的にする。私はなぜそこを怠っちゃったかなー。

 東京藝術大学は、言わずと知れた芸術大学の最高峰である。この「芸術大学」というカテゴリーもなかなか微妙なもので、いわゆる「芸術」というものを学ぶ大学には大きく分けて「美術大学」と「音楽大学」とがある。「〇〇芸術大学」と名乗る大学は大抵その両方の学部を設けているのだが、一般的に「芸大」と言ったらそれら他の大学は全く無きものとして扱われ、「東京藝術大学」そのものを指す。「美大」や「音大」のように大学のジャンルを指すのではなく、「芸大」とはすなわち「東京藝術大学」ただその一つのみなのである。他の「〇〇芸術大学」をどうしても似たような形で呼びたかったら「名古屋芸大」「愛知県立芸大」「沖縄県立芸大」「京都市立芸大」「大阪芸大」と「芸大」の前に冠を付けて呼ばなければならないのである。「芸大」という大学のジャンルは存在せず、ただそこに「東京藝術大学」が孤高の存在として君臨するのみである。

 そして、東京藝術大学は「美大」としても「音大」としてもトップとして君臨する大学である。 

 美大や音大の入試は他の一般的な大学とは大きく異なり非常に私の食指をそそる部分であるのだが、長くなるのでここでは割愛する(入学前からその大学の先生のレッスンを受けていないといけない、など)。重要なのは、東京藝大に入学する人というのは、入る時からすでに美術や音楽の天才であり、実績があるということである。教育大学に入学するのに「ペスタロッチ『隠者の夕暮れ』」「マズローの欲求段階」「ルソーによる『エミール』での子供の発見」「フロイトの5つの発達段階」といった知識は1ミリも知っている必要はなく入学してから学ぶものであるのに対し、音大も美大もそうしたことは許されず、ピアノ専攻科に入学するには相当ピアノが弾けなければならないーー常人をはるかに凌ぐレベルの演奏ができなければならないのである。女性と接する方法を教えてほしくて胡散臭い恋愛塾に入会しようとしたのに、「女の子と付き合ったこともないやつはダメ」と門前払いを食らうようなものである。違うか。

 美大や音大と聞くと、「ちょっと変わった人がたくさん集まっている」というイメージを抱くことが多いと推測する。そしてそれは実際その通りであり、特に美校(藝大の美術学部をこう呼ぶらしい)の学生は奇抜なファッションをする人がやはり多いような描写がある。しかし、そこはやはり芸術の最高学府であり、ただの「変人」ではない。美校であれ音校であれ、登場人物は皆、人並み以上に努力をしていることが伺える。そう、「大学で学ぶことに対して努力をする」ということに手を抜かないのが当たり前の世界であるようなのである。

 そんなの当たり前じゃんーーというのは、それなりの理系の大学か、かなりのレベルの文系大学での話である。繰り返すようだが、私レベルが通った大学では、大学で一生懸命勉強するということ自体が常人には非常に難しい、個人の超人的な意志力に委ねられるぬるま湯のような環境であった。学問を修めるというよりは、年に2回訪れる試験をいかに乗り越えるかがテーマで、自分が専攻する学問をより深めようという本来あるべき姿勢が入学後2ヶ月以内に消失する。

 それくらい、自由すぎて楽しすぎるのである。高校時代よりもできることがたくさん増え、時間に余裕もでき(夜遊びが可能になる)、行動範囲も広がる(乗り物を手に入れる)。私は文学部国文学科であったが、国文学なんて学んでいる暇はなかったね(私の問題)。

 それに対し、藝大の様子を語る藝大生たちは、みな惜しみない努力を日常からしているようである。音校生は休みの日は自主練に9時間を費やし、美校生は泊まり込みで作品を製作する。異色な世界に生き、成功する者はほんの一握りで卒業生の約半数が卒業後消息不明になるという藝大であるが、成功しなかった者のほぼ全員が、普通の大学を卒業してまがりなりにも真っ当な職を手にした人間よりもはるかに大きな努力をしてきており、そもそも藝大に入学できた時点で尋常ならざる才能をもっていたということになる。

 才能があり、しかも努力をしている人の話を聞くのは、やはり素直に面白い。そして、美術も音楽も芸術という奥の深い世界であり、その奥深い世界の先端に向かってまっすぐ突き進んでいる人たちなのである(そこにたどり着けるのがほんの一握りでも)。また、これはインタビュアーである作者の筆力によるところももちろん大きく、学生の話に対するツッコミやら、藝大内を奥さんと見学して回る様子の描き方も売れっ子作家の文章を読む面白さに満ちていた。作者の二宮敦人の著作は過去に一冊だけ『18禁日記』という100%タイトルのみに惹かれて購入した小説を読んだが、これも非常に前衛的で面白かった一冊である。今後ブックオフで探して回る作家が一人増えたといえる。それくらい本著は面白かった。

 題材も良かったし、書いた作者もよかった。非常にオススメの一冊になっている。

 しかし、一点だけどうしても許しがたいことがある。作者の妻は美校生で、この妻の案内で作者は藝大をいろいろと見て回ったり学生から話を聞いたりする。つまり、作者は私とほとんど年齢が変わらないのに、現役女子大生と結婚したということである。許せない。否、許されることではない。たとえ神が許そうと、同年代のおっさんは決して許すことはない。その幸せを許すことは決してできないのである

 これだけ面白い本を書く才能があって、その上若くて才能あふれる女性(女子大生ブランド付き)と一つ屋根の下に暮らしてとても楽しそうな生活が文章の端々から滲み出ているなんて、悪・即・斬であることよ。

 この世が不平等であるのは今さらいうまでもないことで、いうまでもないことではあるが、それでも言わずにはいられない人間のSA・GA。別に女子大生がとりわけ好きというわけではないのだがなんだかとても羨ましい。幸せへの嫉妬。

 

 

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