「海の底」 有川浩 | 映画物語(栄華物語のもじり)

映画物語(栄華物語のもじり)

「映画好き」ではない人間が綴る映画ブログ。
読書の方が好き。
満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

★★★★☆

 海の底に行くのかと思いきや、海の底から来たよ、という話。潜水艦の物語なのでてっきり行くのだとばかり思っておりました。

 

 今や名実ともに大家となった有川浩が書いたいわゆる「ラノベ」である。ラノベとは「ライトノベル」の略であるのは周知のとおりだが、一体いつからこのような呼ばれ方をするようになったのだろう。私がこうした本を読み始めたときは「ファンタジー小説」とそのまんまなネーミングのジャンル名であったし、そのまんまで安直なネーミングを嫌う頭の固い大人たちは「ジュブナイル小説」と呼んでいたものである。それがいつからか「ライトノベル」=「お手軽な小説」という呼ばれ方をするようになった。まあ「ライト」を「お手軽」と訳すのかは微妙なところではあるが、少なくてもいわゆる「文学」と呼ばれるものとははっきりと差別化する意図があることは容易にうかがえる。つまりは、軽んじられている、あるいは軽んじようという意図がある、というネーミングである。

 どんなに面白く、読者を感動させ、含蓄のある物語だとしても、ラノベが芥川賞や直木賞を受賞することはないだろう。根拠はないが、そうなっているのである。

 しかし、では一体何をもって「ライトノベル」とするのかは、とてもあいまいな問題であるというのは、よく言われることである。よく言われることであるが、一つ確かな基準は、「ラノベ出版社から出版されれば、それはラノベである」ということである。他にもラノベとなり得る要件は存在するのだろうが、これは何をもってしても覆せない絶対的なものである。ドラゴンも魔法も幽霊もお姫様も超能力者も魔法科高校も宇宙戦争も登場せず、ごく普通の家庭の中年サラリーマンが上司の理不尽な命令に耐えかねてついに反撃の狼煙を上げ、実際の法律や制度、社会団体や反社会的組織が複雑に絡み合う中を一介のサラリーマンが孤軍奮闘するような大人の社会派サスペンスであっても、富士見ファンタジア文庫や電撃文庫から出版されれば、それはライトノベルとなる。

 ライトノベルになると、大げさに言えば「文学」とは認められないことは先に述べたとおりである。それはすなわち、語弊を恐れず言えば、「本」として認められないということでもある。「読書が趣味」という者がいたとして、「どんな本を読むの?」と質問したときに、「『ドラゴンボール』とか『ワンピース』」と答えると、「それは違う」と即座に否定されることに通ずるものがある。「紙に文字が印字されている」という確固たる共通点があるにも関わらず漫画が「本」「読書」の対象としては決して認められないように、ラノベもまた、微妙に「本」としては見なされない傾向がある(漫画よりは認められるだろうが)。「年間100冊読みます! ラノベを」だと、すごいと素直には言われないのである。

 だからなのかなんなのか、ラノベ出身の作家が「大家」と見事クラスチェンジを果たすと、過去のラノベ作品を改めて「普通」の出版社から出版し直す禊のような儀式がある。ラノベを「文学」へと昇華する儀式である。

 何が言いたかったかというと、本著もそうした「元ラノベ」の一つである、ということである。そして、そうした「昇華」「浄化作用」を経たからこそ、この本を手に取った人が多いだろうというのは、紛れもない事実なのである。ラノベのままであったなら、恐らく目に留まることすらなかった人がほとんどだろう。

 私はライトノベルと呼ばれるジャンルの作品をこよなく愛している。ひとからならぬ想いがある。だから、「ライトノベル」と呼ばれる作品群を軽んじる今の世の中の風潮は好きではなく、それどころか「十分非現実のファンタジーな話なのになぜ村上春樹の小説はラノベではなく『文学』とみなされるのか?」ということが心底不思議でしょうがないのだが、その辺の議論がなされることはまずない。村上春樹は一片の曇りもなくラノベではなく、「文学」なのである。ノーベル文学賞候補なのである。

 有川浩は「電撃小説大賞」というラノベの懸賞公募で大賞を獲得し、デビューした。その後、ラノベから抜け出す契機を得て一躍売れっ子作家となり、後を追うように過去のラノベ作品が順次「普通」の出版社から出版し直されていった。ラノベ作家もまた、ラノベの世界から抜け出すチャンスを得ると、ラノベには戻ってこないのである(「戻ってこれない」とかいろいろと事情もあるのかもしれないが)。

 そんな中、本著あとがきで有川浩自身が本著のことを「大人のライトノベル」と銘打っているという点は、潔いともいえる。ただ、「大人の」という枕詞をいちいち付けるのがいまいち気に入らないのは、私がひねくれた人間だからだろう。

 巨大なザリガニが出てきて人を食べるファンタジーな話でも、角川文庫から出版されればラノベではない。逆に角川スニーカー文庫から出版されれば全てがラノベなのである。

 というわけで、本著は「海の底からやってきた巨大なザリガニが横須賀の住人を食い散らかす」という話である。海の生き物なのでロブスターかもしれないが、本著内の表現が「ザリガニ」なので、巨大なザリガニなのである。

 これが結構序盤から、早々に出てくるので驚いた。早々に登場して、あっという間に重要人物を結構えぐい描写で食い殺した。映像にしたら15禁間違いなしなのにラノベなのである――というラノベの処遇にまつわる私の不満はこれくらいにして、本著の内容に焦点を絞ると、作者の「自衛隊愛」がよく伝わってくる作品となっている。「自衛隊を主人公にした物語を書きたい!」という熱き思いがふんだんに盛り込まれており、それが自衛隊に関する詳細な描写となり、リアリティへと繋がっている。もちろん本当に通な人から見たらまたツッコミどころがあるのかもしれないが、私は全く自衛隊に興味がない人間なので、「詳細さ」=「リアリティ」と素直に感じられた。庵野監督版ゴジラが「もし現代日本にゴジラが出現したらどうなるか?」というのをテーマにした作品で、閣議や臨時立法やらがふんだんに行われそれが「よくわからないけどなんとなくリアルっぽい!!」という感動?を生んだように、本著も自衛隊のよくわからない規則や用語が飛び交うことが、「なんか本当っぽい!」という興奮に繋がっているのである。

 横須賀に突如巨大ザリガニが大量発生し、基地祭で賑わっていた人々を襲いだしたというのはトンデモ設定なのだが、それ以外は実にリアル(に感じる)のである。とりわけ、「自衛隊がなかなか出動できないので、警察の機動隊が代わりに奮闘する」という長いくだりは本当にありそうな話で、終わってるなこの国、と思うこと請け合いである(と書くと右翼って言われそ~)。途中、仲間の自衛官を助けようとヘリに乗ったレンジャーが巨大ザリガニを狙撃しようとするシーンで、ピンチに陥っている自衛官本人が「撃つな! 報道ヘリがいる!」と叫んで狙撃を止めるのは、マジでありそうだなと思った(小並感)。こういった場面が現実に仮にあったとして、本当に狙撃を我慢できるかどうかは不明であるが、撃てばマスコミが問題を大きくすることは100%間違いないだろう。そして訳知り顔のコメンテーターが「問題ですね~。もっと他に手段はあったはずです」と言うのである。なんて訳知り顔で言ってみたり。

 物語は「自衛隊が出動できないので代わりに奮闘する警察」と、「基地祭に来ていた子供たちを助けて潜水艦内に避難し立てこもっている幹部候補実習生である二人の自衛官」に分かれて進行し、後者が主人公パートである。どちらにも共通するのが「いかにして自衛隊を動かすか」という点である。警察(の主要人物)は初めから警察では対処できない事態であると見切りをつけており、いかに自衛隊を引っ張り出して事態を引き継ぐかで奮闘するのだが、機動隊が頑張れば頑張るほど「自衛隊に軍事行動をとらせたくない人たち」は警察だけでなんとかできるのではないかと期待を寄せ、ますます出し渋るというジレンマが生まれるという様子が描かれる。この描写もほんとさもありなんという感じで、本著はもちろん「自衛隊小説」であるので最終的には自衛隊が出張ることになるわけだが、そうなるとたとえ事態が収拾しても後に問題を引きづりそうなものである。それこそ今現在のモリカケ問題ばかりに闘志を燃やす現実の野党だったら、きっと「自衛隊に軍事行動を取らせたのは軽率だったのではないか? 警察だけで対処できたのではないか」と延々と突っかかってきそうである。

 潜水艦内パートは、保護した子供たちと自衛官二人との交流というか、いびつな関係が描かれる。作者曰く『十五少年漂流記』を描きたかった(「解説」より)とのことで、どういった点が『十五少年漂流記』かというと、人間は集団になると派閥ができるという点である。こちらのパートは「女性作家らしいな~」と言ったらフェミニストからお叱りを受けそうだが(そしてお叱りを受けそうなことは先に言っておいて先制するというYouTubeでいう【削除覚悟!】ってやつね)、女性ならではの描き方で思春期ならではのひねくれねじ曲がってしまった中学三年生の姿と引き起こす問題が描かれる。この問題となる中三がほんと「死ね」って思う最低な奴なのだが、それを最終的には救済するのもまた女性というか、母性的なものを感じてしまった。問題のまとめ方としても、主人公の自衛官が「問題が起こったのも問題が起こるだけの隙が自分にあったからだ。自分の代わりに『大人』の男が乗っていれば、それだけで場は収まったはずだ」というようなことを述懐するシーンがある。そうかな~?と私なんかは正直思うのだが、それはそれとして、そういう包み込むような「愛」でこの問題をまとめたところが母性的であり女性的であると感じた次第である。

 物語のヒロイン担当は、潜水艦に避難した子供たちの中で最年長である高三の少女である。この少女が物語のラストで、時を経て、再び――的なところが実にライトノベルらしい終わり方であると感じるとともに私が最も好む安心感が得られるのは◎であるのだが、言いたいことはそういうことではなく、18歳の高三女子をあの状況で子ども認定し続ける20代半ばの彼女無し男は、女が描く夢物語であるということである。女が想い求め描く男の誠実さの形、夢――そんな儚い夢を読んだのである。いや、もちろん手を出すか出さないかは別として。ただ、邪な心すら抱かないという誠実さを期待するところが夢なのである

 そこは少し主人公に現実感がないなー女性が描く理想のタイプ二人だなーという感じで乗れなかった点である。熱血漢だが情に厚い男と、一見人当たりがよくお調子者だが悪いことには冷酷無比な男、といった違ったタイプの非現実な男二人が描かれる。この辺りには、「男が描く理想のヒロインは女性に鼻で笑われる」ということと共通する、広くて深い溝が存在する。両者の間には日本海溝を凌ぐ深い隔たりが広がっているのである。

 総じてエンターテイメント小説として非常によくできた作品であったといえる。単純に、読んでいて全く飽きなかった。

 ただこれがラノベの装丁と出版社を身にまとった瞬間、「子供向け」と断じられてしまうんだけどね~

 

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