五帖目第一通 末代無智 | 蓮如上人の『御文』を読む
2010年05月01日(土) 02時52分35秒

五帖目第一通 末代無智

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 末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 この末世に生きる知恵のない在家の人々は、男性も女性も、心を一つにして阿弥陀仏に深くお従いしなければなりません。
 他の仏・菩薩・神々どには決して救いを求めようとサず、ふたごころなく、ひたすらに、「阿弥陀仏さま、お誓いに従います」と信じるならば、そのような人びとを、たとえ罪ぱ深く重くとも、かならず阿弥陀如来はお救いくださいます。このことがすなわち、第十八願の念仏往生の願の意味です。
 このように信心を決定したうえには、寝ても醒めても、どんなときにも、命のあるかぎりは南無阿弥陀仏と称名念仏すべきです。あなかしこ、あなかしこ。

【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」は帖内五の一通に出るものであり、以下五帖目の二十二通には四帖目までと異なり、最後の年号を出されていない。この中には吉崎時代のものもあり、晩年のものも混同しているようである。元来、「御文章」の短いものは晩年のものといわれる。すなわち「聞書」七十条には、
 蓮如上人仰られ候、われは何事をも当機をかゞみおぼしめし、十あるものをーにするやうにかろがろと理のやがてかなふように御沙汰候。是を人が考へぬと仰られ候、御文等をも近年は御ことばすくなにあそばされ候。
とある文によると、短い文章のものは晩年のものといわれるが、必ずしも一定していないようである。
 この「御文章」の内容は「聞書」百八十五条と照合すると明らかに知られる。すなわち、
 仰にいはく、仏法をばさしよせていへさしよせていへと仰られ候。法敬に対し仰られ候。信心安心といへば愚痴のものは文字もしらぬなり。信心安心などいへば別のやうにも思ふなり。たゞ凡夫の仏になることをおしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。何たる愚痴の衆生なりとも聞いて信をとるべし。当流にはこれよりほかに法門はなきなりと仰られ候。「安心決定鈔」にいはく「浄土の法門は第十八の願をよくよくこゝろうるのほかにはなきなり」といへり。しかれば『御丈』には一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をばたとひ罪業は深重なりとも必ず弥陀如来はすくひましますべし、これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこゝろなりといへり」
とあり、この「御文章」は浄土真宗の根本である第十八願の安心の内容を端的に明らかにされたものである。
 最近の傾向として「安心」を看過して親鸞思想、蓮如思想といわれるごとく、思想として客観的にとらえようとするものが多いようであるが、安心を浄土真宗から除くと全くその生命を喪失するのである。この安心は上の「聞書」の文にあるごとく、凡夫であるこの私か仏になることであるといわれる。特にはじめに救いの対機をあげている。第十八願には十方衆生とあり、十方一切の人、一人ももれずすくいたまうのである。いかなる極悪深重の人ももれることがないのである。それゆえ、源信和尚は極重の悪人といわれ、法然上人は極悪最下の人といわれ、親鸞聖人は煩悩具足の凡夫といわれている。この極重悪人とは他者をいうのではない。この私そのものをいうのである。この私のたすかることを誓われたのが第十八願である。「一心一向に仏たすけたまへともうさん衆生をばたとひ罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくひましますべし」とある。一心一向はひとすじにということであり、「仏たすけたまへとまうさん衆生」とは無疑信順の相を示すものである。
 蓮師の「御文章」の醍醐味ともいうべきは、この「たすけたまへとたのむ」ということであろう。「たすけたまへ」も「たのむ」も、さらに「たすけたまへとたのむ」も等しく帰命の義である。四の六通では「即是帰命といふはわれらごとき無善造悪の凡夫のうへにおいて阿弥陀仏をたのみたてまつるこゝろなり」とあり、四の十四通では「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり」とあり、五の十三通には「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこゝろなり」とある。帰命の蓮師の釈はすべて信順勅命とされ、帰投身命のごとき他流の釈はみられない。それゆえたのむということも信順無疑の相を示すものであり、「たすけたまへ」も鎮西義のごとく、請求を意味するものではない。逆の意である許諾の義である。
 また「たすけたまへとたのむ」の「と」は即を意味し、「たすけたまへ」と「たのむ」は同義を意味するものである。蓮師のこのような用法は、「御文章」の中に随所にみられるのである。たとえば五の九通にある「たとへば南無と帰命すれば」とある「と」も即を意味するのである。しかも「たすけたまへ」には請求と許諾と両義用いられているが、請求の場合は衆生の側か先行するのである。また許諾の義となる場合は仏の救いの法が先行するのである。今許諾の義とされているのは救いの法が先行していることを前提としている。ここにこの私の側では、無疑信順ならざるを得ないことを表わすのである。
 第十八願には三心と十念の信行の因が出されているが、行の念仏には乃至十念と乃至の不定の語を冠しているから、十念の念仏は三心に従属するものであり、信心の体が後続に相発せるものといわれる。それゆえ、往生の因は信心一つに限定される。この信心の具体的な相を述べたのが「一心一向に仏たすけたまへと」の信順無疑の相である。
 しかも最後に「これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこゝろなり」とある。信心往生の義を前に出され、念仏往生で結ばれていることは『教行信証』「信巻」の五つの願名のはじめに「念仏往生の願」を出されているのと同義である。法然上人の念仏往生といわれるのも、親鸞聖人の信心往生といわれるのも全く一つであることを意味するのである。というのは念仏往生の念仏も、信心往生の信心もともに他力であるからである。自らの造作は微塵も介入する余地は存しない。その体は名号法そのものであるからである。それゆえ、この私の上では、名号六字の法に無疑信順のほかにないのである。随って信決定の上の念仏は往生の因でなく報恩の称名となるのである。

〔用語の解説〕
・末代無智ー末代は中国の言葉で末法と同義にもされるが、上代に対するもの。
・在家止住ー在家とは善導大師の「序分義」によると次のごとくある。「又在家といふは五欲を貪求すること相続してこれ常なり、たとひ清心を発せども猶し水に画くがごとし」とあり、五欲の本能の生活に溺れているもの。
・念仏往生の願ー第十八願のこと、法然上人の『選択集』に出る。宗祖も屡々用いられ、『浄土文類聚鈔』の三心一心の問答にも出されている。


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