五帖目第十二通 御袖すがり | 蓮如上人の『御文』を読む

五帖目第十二通 御袖すがり

 当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧才学もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにその人を摂め入れておきたまふべし。
さればこのこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さては、わが身のほとけに成らんずることはなにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことはさらにもつてあるべからざるものなり。
しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。 これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩をおもひはかりて、仏恩報謝のためにつねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 わが浄土真宗の信心の内容を詳しく知ろうと思う人は、ことさら知恵や学問はいりません。ただ、わが身は罪深い浅ましい者であるとさとり、このような者までもおたすけくださる仏は阿弥陀如来だけであると知ってください。
 そして、自分のはからいを少しもまじえずに、阿弥陀仏のお袖に強くぉすがりさせていただく思いで、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」とおまかせすれば、阿弥陀如米は深く喜ばれて、そのお体から八万四千の大いなる光明を放たれ、光明のなかにその人をおさめ入れておいてくださいます。
 そこで、これを『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨(阿弥陀仏の光明は十方の世界を至らぬところなく照らし、お念仏をする衆生をおさめ取って捨てることはない)」と説かれているのであるーーとお心得ください。
 してみれば、わが身が仏になるのは、何の面倒もないことです。ああ、なんとすばらしい、世に超えすぐれた阿弥陀さまの本願でしょうか。なんとありがたい阿弥陀如来の光明でしょうか。この光明のご縁に遇わせていただかなければ、永遠の過去からの無知やさとりの妨げをなす悪い行いが治ることは、決してあるはずはありません。
 しかるに、この光明というご縁に促されることにより、遠い過去世からの如来のお育てのおかげで、他力の信心を、今、すでにいただきました。
 そしてこの信心は、まったく、阿弥陀如来のほうからお授けくださった信心であると、ただちに明らかに知られました。このゆえに、信心も行者の方で起こす信心ではなく、如来からいただく他力の信心であることが、今こそ、明らかに知られたのです。
 こういうわけで、もったいなくも、ひとたび他力の信心をいただいた人は、みな、阿弥陀如来のご恩ということをよく考えて、仏のご恩にお応えし感謝するために、常に称名念仏を申し上げるべきです。あなかしこ、あなかしこ。