五帖目第十六通 白骨 | 蓮如上人の『御文』を読む
2010年05月16日(日) 03時04分40秒

五帖目第十六通 白骨

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 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 さて、人間というもののよるべないありさまを心を静めて見つめれば、「およそ儚いものとは、人がこの世に生を受けてから去っていくまでの始中終、幻のような一生である。それだから、人が一万年の寿命を受けたとはいまだかつて聞かない。一生はすぎやすいものである。末世の今にいたっては、いったい誰が百年の姿形を保ちえようか。われが先か、人が先か、命の終わりを迎えるのは今日とも知れず、明日とも知れない。先立たれる人、先立人、それは草木の根もとの雫がしたたり落ちるよりも、葉先の露が散りゆくよりも多く、人の死の前後はうかがい知ることができない」と先人は言っています。
 ですから、朝には美しい生き生きとした顔をしていても、夕には白骨と化してしまう身です。無常の風がさっと吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、命の息は永遠に絶えてしまいます。美しい顔も空しく変わりはて、桃李のような愛らしい姿も失われてしまったなら、親族たちが集まって嘆き悲しんでも、もはや何の甲斐もありません。いつまでもそうしてぱいられないので、野に送って荼毘に付し、夜半の煙となりはてれば、ただ白骨だけが残ります。あわれといっても、なおいい足りません。
 人間の俸いことといえば、老いて死に、また若くしても死ぬこの世ですから、どなたも早く浄土往生の一大事に真剣に心を向けて、阿弥陀仏にお従いして、お念仏を申すべきです。あなかしこ、あなかしこ。


【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」の来由は三説あるが、『来意鈔』の説が適切のように思われる。延徳元年、蓮師七十五歳の八月十七日、山科在住の時、近隣の安祥寺村で三日の内に親子三人が急死する事件があったといわれる。青木民部という浪人夫妻の一人娘の清女が、十七歳にして嫁人前に急死し、さらに民部とその妻が次々に急死した。さらに山科御坊の土地を寄進した地頭の海老名五郎左衛門が、また十七歳の娘を急死させた。これに対し与えられた御文であり、弔辞といわれる。この「御文章」の出処は後鳥羽上皇の「無常講式」、さらに存覚上人の「存覚法語」にある。すなわち、
 ……おほよそほかなきものはひとの始中終、まぼろしのごとくなるは一期のすぐるほどなり。三界無常なり。いにしへよりいまだ万歳の人身あることをきかず。一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形体をたもつべきや。われやさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつひとはもとのしづく、すえのつゆよりもしげしといへり。(真聖全、列祖部三六〇頁)
とある。弔辞としては、日本人のものでは恐らく最高のものではなかろうか。
 現在多くの有名人の弔辞を聞くが、死者に対するほんとうの態度を見失っているようである。多くの人は最後に「安らかに眠れ」とか「御冥福を祈る」という言葉で結ぶ。いかにも耳ざわりがよいように感ぜられるが、死者に対する正しい態度ではない。というのは、安らかに眠らないと、生きた人間に危害を加えるという。死霊に対する恐怖感からきているからで、これは原始宗教(原始人)の考え方によるものである。一般に俗にいう、化けて出てこないようにということが根底になっていると思われる。御冥福を祈るということも現代人には全くナンセンスな言葉である。冥は死後の世界をいい、福は幸福ということであろう。すると、死後極楽浄土に参れということであろうが、現代人は死後など全く問題にしていないものが多い。さらに極楽や地獄といえばお伽噺のように思って馬鹿にしているものも多い。これらの人に御冥福を祈ることは、実に馬鹿げたこととなるであろう。
 死者に対する正しい態度は「アナタの死を無駄にしません」ということのほかにはない。このことは、宗派や思想に関係なく、誰にでも通ずるのである。これこそ死者を永遠に生かす道である。この「御文章」の内容は、正しく「アナタの死」を無駄にしないという構成となっているのである。
 多くの人々は人生の無常なることに感嘆し、特に不幸に遭遇した場合は共感をもつであろうが、この「御文章」は単なる無常なることを述べたものではない。
 もし仏教が無常なることで終るならば、それはニヒリズム(虚無主義)にほかならない。そうではなく仏教は、人生は次の瞬間も保証されていないから、悔いのない無駄のない生き方をすることを説いたものである。禅家でいわれる「日々これ好日」は、仏教一般に通ずる生き方である。この無駄のない、悔いのない生き方は、生死の問題の解決のほかにはない。
 いかに立身出世し、名誉や地位、教養、財産を身につけても癌という死刑の宣告を与えられると、何の価値もない。水の泡のごときものである。生死の問題、後生の一大事の解決を見い出した時はじめて、ほかなき人生、生きる答えのない人生に、ほんとうに生きる答えを見い出すことができるのである。その答えこそ、「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏もうすべきなり」ということである。念仏もうす身にさせていただくことにおいて、はじめて、「アナタの死」を永劫に無駄にしない道が開かれるのである。そこに死者が唯一生かされる道が開かれる、ほんとうのたむけの言葉となるのである。

〔用語の解説〕
・この世の始中終-この世の一生涯。少年、壮年、老年の生涯をいう。
・百年の形体-仏教では人間の一生涯を一形という。一つの形を親からいただき生涯持続するからである。形体は身体ともいわれる。
・朝には紅顔ありてー朝は元気な達者な姿をしてもということ。元来、紅顔は美人の容色。
・老少不定-ニの一通にも「だゞ今生にのみふけりてこれほどにはやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかひとしりながら」とある。老人が先に死し、若いものが後に死ぬということは定まっていない。誰が先に死ぬかわからない、ということである。

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