愛は限りなく ~DIO, COME TI AMO~

愛は限りなく ~DIO, COME TI AMO~

一粒の雨にさえ心揺れることもある。いつもどんな時も心閉ざさずに…。

愛は限りなく…それはジリオラ・チンクェッティ66年のヒット曲にして、同年の第16回サン・レモ・フェスティヴァルにおける記念すべき優勝曲。また、彼女自身が主演した映画の題名でもあります。そして、子供時代の私に最も影響を与えたアダージョです。   IDはdio-come-ti-amoですが、“dio, come ti amo”(イタリア名)、“愛は限りなく”(日本名)のいずれでも可…なんてネ。



8月16日(木)記事『本当に80曲演っているのか?』に追記いたしました。詳細は同記事の最下段をご覧下さい。

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昨日のセンター試験で思わぬ事故が発生し、再試験が行われるそうです。

何でも、試験監督官の間違いから所定の時間より1分早く終了させたのが原因だとか。

これはとんでもない話ですが、私が受験生の立場だったら迷わず追試験はお断りするでしょう。

確かに、問題の対象となったのが国語なので、時間が足りなくなる教科のひとつではあります。

とりわけ、受験生を迷わせる選択肢を多数含む小説の分野で時間を取られる例が少なくない。

また、出題文を読むだけでもかなり消耗するため、高得点を取れる人でさえ解答し終えるのは終了間際となるのでは?

 

しかしながら、追試を受けたくない理由もあります。

飽くまで私の時代、共通一次の頃である点を前提とさせて頂きますが、数年分の過去問を見直したところ、本試験よりも追試験の方が難易度が高いのです。

傾向としては、追試験は問題が少々ひねって作られていました。

本来追試験とは、本試験当日に体調を崩すなどで受けられなかった人が受験対象です。

誰でもが受けられる訳ではありません。

私の記憶が正しければ、正当な理由がないと受験不可能だったと思います。

なので、最初の文章は正確ではありません。

『再試験が行われる』のではなくて、『追試験に回す』もしくは『追試験に回される』が正しい。

 

追試験はこちらからすると大変ありがたい制度ではあっても、過去問を見た限り酷い差が付けられてありました。

例えば世界史だったら、ちょっと穴になるような地域や時代からの出題があったり、生物では暗記ではなく思考能力を試すような設問が見受けられたりと、出来れば避けたい性格のテストですよ(苦笑)

だから、該当する受験者であっても1~2問手が回らずに時間切れとなったにせよ、それまでの解答にそこそこ自信があるならば、本試験のままで二次試験に臨む方が賢明ではないですか?

まるきり最初から調子が出なかった方は、その機会を逃す手はありません。

問題は、受験者に選択権があるのかないのか。

たとえ1分前倒しで終了の合図が鳴ったとしても、完答していたらはっきり言って追試験は必然性がまるでない。

 

だけど、私の時とは問題形式も難易度もずっと変わっているでしょうから、ここで申し上げている内容はかなり的外れになっている可能性が高い気がします。

名前からして『共通一次試験』ではなく、『大学入試センター試験』ですからね。

なぜ書いている途中で不安になったか申しますと―。

 

 

<大学入試センターによると、神田外国語大(千葉市)で監督者のミスで国語の試験時間が1分短いまま終了。延長を検討している間に受験生42人が会場を離れたため、再試験の対象となった。>

 

 

上記は本日付け『読売新聞』の記事を引用しました。

『延長を検討している間に受験生42人が会場を離れた』とは?

センター試験では早く解答できた人は、退出できるの?

それとも試験終了後に監督者が間違いに気付き、話し合っている際、既に部屋を出てしまったのか。

詳細はわかりかねますが、いずれにしても再試験を受けるか、本試験の答案のまま提出するかは個々の受験生に任せるべきだと思います。

 

もっとも、今では本試験と追試験とで平均点に差異が生じないような措置が取られていてもおかしくない。

私の頃は万事大雑把だった…と言うより、現在が何かと厳し過ぎる面があるとも感じられます。

ただし、本試験と追試験との難易度については厳正に対処して頂けねば困りますよね。

まあ、神田外国語大での対象者は、全ての教科を受け直すのではなく、飽くまで国語だけですが、それでも選択権は本人にないといけません。

あっ、もしかして再試験の内容の方が簡単だったら、再試験を受けた人の勝ちですね(笑)

 

 

 

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Ibaraqui, le 20 janvier 2019

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昨日記事における図書館の描写はやや断定的過ぎて、わかりにくかったかもしれません。

新書判の陳列方法に関してです。

私がいつも利用する近所の図書館は、新書判の著書は出版社単位でまとめてあります。

ただしそれは全ての新書判作品という意味ではなく、講談社や岩波書店など大昔から膨大な書を刊行しているところに限られます。

後発の文春新書や新潮新書、PHP新書等は主題ごとに分けられた書棚に入っているのが常です。

 

新書判のみならず、文庫も考えてみればそうでした。

岩波文庫や講談社学術文庫、新潮文庫はそれだけで棚の一角を占めますが、出版社によっては主題別に他の書と並んでいる例も珍しくありません。

あんまり気にしていなかったので、どの出版社がどう配置されていたかを今はっきり思い出すのは困難です。

文庫の場合は、新書と異なり古典文学もしくは現代小説が多くを占めます(講談社学術文庫は別)。

だから、例えば岩波文庫の棚から無作為に5冊取り上げて借りたとしても、ある程度主題が決まってしまいます。

いや、そんなことはないか…。

西洋の古典と一言で言っても、『ガルガンチュア物語』と『ガリア戦記』とではまるで別物ですから。

しかし、純文学と教養的書物とでは自ずと読書をする態度も変わってきます。

 

話をまとめると、多読をするにはひとつの出版社の新書だけで占められた棚から無作為に選び受付に持って行き、それらを期限までに読み切るよう努めれば、読書の量もぐんと進むそうです。

私が名を失念してしまった、ある著者はそのような趣旨で書いていました。

 

新書にはたまに音楽関連の作品もありますが、自分には殆ど縁がありません。

私が購入するのはいわゆるMOOKが多いです。

保存版というか資料として最適でしょ?

単行本で買ったのは、デイヴ・マーシュ著『明日なき暴走』(1982年)とクインシー・トループ編『完本 マイルス・デイビス自叙伝』(1991年)くらいでしょうか。

前者は以前にも述べたようにあまり面白くなかった。

教師が生徒の答案を採点しているかのような視点が好きになれないです。

まあ、あれが英米の音楽評論家の書き方として標準なのでしょう。

採点するな。

こちらは飽くまで愉しめるか否かだけが大事なんだから。

 

マイルス・デイヴィスの方は面白かったですが、ページ数の割に内容が薄く感じられた。

理由は書き下ろしではなくて、“語り下ろし”だからだと思います。

インタヴューしたものを一人語りに直す手法はよく見られますが、あれだけの経歴を持った音楽家にそのやり方では限界がある。

本当に筆記された自伝と比較して情報量が少なくなります。

あっ、でもそんなことを言ってしまうと、前言と矛盾しますね。

『愉しめるか否か』と述べているのに、形式を云々してはいけない。

ただし、音楽作品やライヴを論評するのと、自伝の作成方法を論じるのとでは違いますよ。

あと、仮にマイルスに自伝を書くよう依頼しても拒否されたでしょう。

その点では同著が正しかったのは間違いありません。

 

総論として、若さの漲(みなぎ)る音楽家が本を出すなら語り下ろしでも良いですが、ある程度の経歴を積んだ人になれば、書かなければ伝えきれない部分も出てくるはず。

語り下ろしだとインタヴュー記事の延長といった感じで読みやすくはなるものの、恐らく本を読んだ気にはなれない。

 

 

 

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Ibaraqui, le 19 janvier 2019

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速読の技法を身に付ける方法だったか、多読をするためだったか忘れましたが、ある人がこんなことを書いていました。

誰だったかはどうしても思い出せません。

図書館に行ったらまず新書の棚に直行し、右からでも左からでもよいから書名を見ずに5冊なら5冊取って受付に持って行く、と。

それを貸し出し期限までに読み切るようにすれば、読書量が飛躍的に伸びるそうです。

 

確かに!

どこの出版社であれ、新書のシリーズと言えば大抵は入門書的内容で、読み終えた後にそれ以上知りたければ専門書に進むのが常道。

要するに新書とは、その内容に共感するか否か、興味を持つか否かはともかく、万人が理解できるように書かれています。

だから、無作為に新書を5冊借り受け、期限を決めて読み切るようにすればかなり読書量が増えると期待できるでしょう。

なぜなら、自分がそれまで興味のなかった分野にまで手を伸ばすことになるからです。

と同時に、知識や教養も広がるのは間違いありません。

 

ただ、これは言うは易し行うに難しだと思います。

もとより、自分に予備知識のある分野であれば、新書判のページ数くらい一晩で読み切る自信はあります。

しかしながら、逆に全く興味のなかった分野の著書は…1章分を読み終えるのも疲れてしまうのは確実。

だって、ページが前に進まないでしょう。

人文系や社会学なら一応日常生活に関りがある、もしくは学生時代の記憶に頼って文字を追うことはできるでしょうが、科学や天文学と来たら聞き慣れない言葉に立ち往生するのは目に見えています。

もっとも、普通の新書シリーズで正面から自然科学を扱った書はそう多くないはず。

経済は著者によりますね…。

 

哲学は?

とんでもない。

なるほど私はマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の『自省録』(翻訳:神谷美恵子先生)を座右の書にしていますが、だからと言って西洋哲学の書物を何でも読破できるほどではないです。

ただ、ここで対象としているのは新書判のシリーズですからね。

読めないことはないでしょう。

新書ではなく文庫ですが、ルキウス・セネカの『人生の短さについて 他二篇』(翻訳:茂手木元蔵氏)は普通に読めます。

というか、誰でも読書可能な著ですよ。

 

新書判でも出版社によって差異はあります。

小学館新書は比較的取っつきやすい主題の書が多く、まさに万人向けだと思います。

『「蕎麦、そば、ソバ」の楽しき人生』(丸山康寛氏、2009年)を読み、本気で自分でも蕎麦を打ってみようかと感じたほどです。

逆に最も避けたいのが、講談社のブルーバックス。

まあ、こちらのシリーズは自然科学を専らとしているので、図書館で借りるとしても選ぶ必要があります。

文系向きの講談社現代新書も、一部難解な書を含んでいますね。

 

書物の代わりにCDであればこんな楽なことはありません。

『今晩中に5枚のCDを最初から最後まで聴き通せ』と言われても、受け身ですから。

その点読書は明らかに能動的な行為でしょ?

そこが大きく違う点です。

しかし仮に狭い部屋に閉じ込められて、自分の興味ない分野のCDを3~5時間ぶっ通しで聴かされたら苦痛にはなります。

パンク、テクノ、ガレージ・ロック、グランジ、ラップそして最近の邦楽などなど。

もっと若い頃なら“新しい発見”があったかもしれませんが、今ではもう遅過ぎます。

 

 

 

 

 

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Ibaraqui, le 18 janvier 2019

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