塩田城は上田市の南西のほう、独鈷山前山寺の近くの山稜北面にある。
この地には鎌倉時代の1277年に鎌倉幕府の連署北条義政が職を辞し、この地にやってきて館を構えたのが始まりとか。鎌倉幕府が滅んだ後は千曲川沿いにいた村上氏の支配下にあった。戦国時代になって天文二十二年(1553年)になると甲斐の武田信玄が村上義清との戦いの中でこの城を奪い、川中島合戦のときには重要な拠点になったとのこと。もっとも少し後には浦野川沿いに新たに築かれた岡城に拠点が移ったらしいとか。
武田氏が滅ぶと真田氏の城となり、上田城が築かれた天正十一年(1583年)に廃されたという。
前日に真田の郷でのプチオフ会に行き、松尾古城を遠見番所まで登った後に砥石城、天白城と山城に登りまくったせいで朝から足がめちゃくちゃ重かったので、登らずに済む城をと探してここにした。
何しろこのあたりには比高のある山城が多く、この時も上の弘法山が「塩田上の城」なことを見落としていた。そして日本海から流れ込んだ季節風の雲がこの辺りにまで流れ込んで結構な☔️の中での登城だった。
登城口から発掘調査地点まで
登り口には駐車場もあり、数台での訪問も可。
登城口は緩やかな斜面の下にあって、説明板や城址碑が並ぶ。
説明板。
城域はここまで登ってきた車道沿いから続いているとのこと…
見下ろしてみると、確かにそれらしい階段状は見えるけど、長閑な集落の風景そのもの…
城内は階段状に曲輪が続いているとのことで、その様子を下から見てゆくか…
城内を貫く道。
そして、左右に最初の曲輪の登り口。
左も右も同じような感じっぽいから、ここは左側へ入ってみるか。
何となく竪堀状にも見える入口を入ってゆくと、こんな感じで正面に平場、右手に段。
道に戻って、上へ。
すぐ上の段はセツブンソウ保護のために柵されていた。
さらに登ってゆく。
道の両側の深い植林地だし、段郭は崩れているところもあって階段状がきれいに見える場所は少ない。
それでも、上の方に説明板らしきが見えるここは、ハッキリしている。
道が曲輪を抉るように付けられていて、虎口のようも見える…
その左側
右側
そして上は、広い曲輪になっている。
ここが発掘調査地点とのこと。
発掘調査にかんする説明板も立っている。この上には防獣柵の扉がある。
『入山禁止』とあるが秋季の止め山とのことで、キノコ採集を禁止、この上にそびえる弘法山への登山を目的とした入山は許可するとのこと。
城の探索で道から外れるのはアウトだろうが、道から遺構を眺めるのは大丈夫だろう。
三島神社の前まで同じような感じか…
防獣柵から上も似たような感じで、階段状になっていながらもかなり崩れて、単なる緩斜面としか見えないような場所もある。
そうかと思うと、段がちゃんと見える場所もある。
弘法山登山道が直進と右に分岐する直下あたりは、階段状がよくわかるところ。
左側
右側
分岐は直進と右方向に出ていて、どちらへ進んでも弘法山には登れるらしい。
ここは直進して、さらに階段状を眺めながら登るか。
さらに登ると突き当りになる。
左が三島神社、右が弘法山とのこと。
三島神社は、階段状の最上段になるらしい。
ここを西の端まで進むと、先ほど分かれた弘法山への登山道に突き当たる。
三島神社の上の方は階段状ではなくふつうに斜面になっていたが、こちら側はまだ階段状が続いている感じ…
仕方ない。もう少し登ってみるか…
雰囲気急変❗️突然の石の世界が…
こんな立派な石積に固められた井戸を見たの、信州じゃ内山城以来だった。
傘を持たずに出発して時雨に叩かれていたので、ここより上の北条義政の墓や、上の城へは行かずに撤収した。
ともかくも下調べでは階段状で戦うに不向きな城というイメージで、ほとんどの場所はその通りだった。そのあまり最上部の石積や井戸のイメージが無かったので、目にしたときは心臓が止まるかと思うほどビックリした…
ようすはだいぶ違うけど、越前は平泉寺の階段状を連想した。
★塩田城
長野県上田市前山
登城口前に5台分程度の駐車場あり。
山城
(2025年11月10日 記)


















