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松本の最北端、奈良井川と梓川が合流するあたりの山上に構える平瀬城。

南と北に支城を持っていて一城別郭、まとめれば信濃大町の木舟城にも匹敵しそうな規模を持つだろう城だが、真夏に登ったときには旺盛な生命力を誇るドヤブに阻まれ、遺構にはサッパリ巡り会えなかった…

秋が深まって緑がすっかり紅や黄に変わったこの日、前回見逃したものを探し出すべく追試登城、そして北支城へ挑戦することと相成った😅


現在位置(Googleマップで)

前回、夏の盛りに来た時には緑で覆われていた登城口も、いまは🍁。


南支城への道も、まだ整備中。


沢の向こう側、険しい斜面に木の階段が設えられているのが見えるが、これが見るからにいつ崩されるか分からないような雰囲気…

この斜面を直登するルートをとらざるを得ないようで、厳しそう…


沢を登っていった先の山田古道との分岐に立つ説明板も、🌿🌿が少なくなってハッキリ見えている。



ここから左へターンしつつ急斜面をへばりつくように登って、しばらくでかなり広い緩斜面に出る。

宮坂武男先生の鳥瞰図を見ると、このあたりの西側に降りてくる尾根上に数段の段郭が描かれている。

夏には下山途中に気づいたが、写真1枚撮っただけで退散…

今になってよ〜く見てみると…

確かに🤔


前回はすこし左寄りに目線がズレていたが、全く見えてないな…
こんなんだったからムリないわ〜😂
(2024年7月27日撮影)

宮坂先生の鳥瞰図では、ここから西に入った尾根上にも段郭が描かれている。
ここは帰りにそれらしいものを見ていたが、これまた突っ込める状態じゃなかったわな😂
(2024年7月27日撮影)

今回はそちらへ近づいてみた。

すぐ下まで近づいてみると、なるほど上に平坦地らしい場所が…


登ってみたが、真新しい落ち葉が積もって滑る上に掴まる木などが少ない。

登る距離が短く済むところを選んで登る。

そして、登りきった上。


これは間違いなく曲輪だろう、という平場があった。

少し外傾しているが、テニスコートぐらいの広さがある。

縁も、切岸加工というほどではないが、削平面から急斜面で落ちている。


よく見ると、10メートルぐらい上にも曲輪らしいものが見える。

登ってみると、ここはより平坦。

コイツらは段郭で間違いないだろうな…


で、さらに上にも同じようなところが見える…😮

ここも高低差10メートルばかりなので登ってみる。

登りきると、下の2面よりはずっと狭い、アパート1室ぐらいの段郭に出た。


って、登城道すぐ隣を登っるや〜ん😂


夏に登った時には、段郭には全く気づいていなかった🤣


ここで登城道に出て登ってゆく。

見た限り、段郭はまだ上に続いているようだ。

唯一確認できた、すぐ上の段。


ここから、あと一息登ると主郭虎口。

ここは常緑のササが多く、夏とあまり雰囲気が変わってない…


そして、東西に長い主郭。


虎口のすぐ左側あたりから南北に横断している土塁。


高さ1メートルぐらいだが、やけに多くの石が転がっている。

往時は石積だったのだろうか?🤔


どこも夏より草丈が無くなっている。

定期的に刈り入れをして下さっているのだろう😊


土塁の向こう側の曲輪は主郭と同じ高さ、テニスコート2面分ぐらいの広さ。


曲輪の端っこに、高さ1メートルもないぐらいに土が盛られている。

往時からあったものか?そして何だったのだろう…


で、その向こう側一段下がったところに、もう一つ曲輪がある。


この曲輪はテニスコートぐらいの広さがある。

隣の曲輪との間は、しっかりと段で仕切られていたようだ。


そして、ここに三角形があった。

「下田」という四等三角点だそうだ。


ここからは、安曇野が一望のもと🙌

この城の任務が実感できる景色✨


そして、この曲輪の西端から下、安曇野の方への落ち込みが、ものすごい急傾斜😨

ヤブで覆われているが、それがなかったら高所恐怖症児のワタシにはとても近づけないような末端だった。


宮坂先生の鳥瞰図を見ると、ここから南西に落ちる尾根上にいくつか段郭のようなものが描かれている。

しかし実際にはヤブが猛烈で視界がぜんぜん無さそうだし、さらに傾斜が凄そうなので降りられそうになかった…😂

よって、主郭はこのぐらいにして奥に進むぜ〜💨


主郭の東端に立っている標柱は、夏と変わらず真っ白に輝いている。

ま、ここぐらいは拝んで行く…


その足元には鎮魂碑。

今も祀られているようす。


この先に、夏にはヤブヤブで全く見栄えがしなかった堀切がある…

さて、どんな姿が見られるか…ドキドキ💓


松本 平瀬城 再訪編その2に続く)

 

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(2024年12月3日 記)