急斜面を何度も折り返すつづら折れや、それでなくても地附山公園からけっこうな距離のある登城道を1時間ぐらいかけて歩いてきた。
バードライン廃道まで来れば、すぐ東側の登城口から登れば城内に到達できる。
左に下山口があって進入禁止になっているが、ここの見学順路は一方通行なのか…
少しの間だけ急な道を登ると、あとは傾斜のゆるい松林の中を登ってゆく。
そして、奥に見えるのは…
城あった〜🙌
いやはや、けっこう長い道のりをノタノタ歩いて、1時間半ちかくかけてようやく城の遺構にたどり着いた。
土塁と、裾に空堀らしいのが走っている。
ここは南側の曲輪の南西の端で、宮坂武男先生の図入り説明板も立っている。
道は南側の曲輪の土塁下を東へ進ませている。
さっそく折れが入っているな🤔
しかも、道が通っている裾は空堀だな…
虎口の前まで進んでから振り返ったところ。
曲輪へは、ぐーっと左へカーブしつつ登っている。
素朴なつくり。
登ってから振り返る。
土塁に入った切れ込みは浅く、中を通すというよりは乗り越えさせているな…
もっとも、宮坂先生の鳥瞰図にこの道は描かれておらず、説明板のあるところの西側に入った向こう側から登らせるようになっている。
この道に、虎口のように見えるここも後補なのか…💦
この曲輪は、説明板の言うところでは城の最南端の馬出状にあたる。
郭内は東西に長い。
南と西は土塁で厳しく守られていて、明らかに今歩いてきた地附山方面が寄せ手の侵入路と予想されている。
そして、土塁のない北側の向こうには、めちゃくちゃな大きさの横堀…?堀切…?
深さは7メートルぐらいありそうだが、これをぜんぶ人工的に掘ったようには見えないな…
特に西側は大きく広がって貯水池のようになってるし…
ヤブに覆われている部分が広くて分かりにくいが、ここは東のほうが狭まっていて、ここに堀切を入れたような感じに見える。
似たものを探すとすれば、信濃大町の木舟城、おてんじょうの裏にある堀切があるだろうか。
道は東の方へ抜けているが、道も掘り下げられているし右側のヤブの中にも平行に堀が走っていて、こちら側は二重になっている。
そして、🌿🌿で全く見えないが、東の斜面へちゃんと竪堀も落としている。
堀底から主郭までの登りは、かなりエグい💦
南の曲輪よりずっと高いところまで、急斜面にへばり付くような登りが続く。
整備された今でもスパルタな登り…💦
そして、登りきった主郭は別世界のような平坦さ😮
ここまでの守りの険しさと、主郭の平和な世界とのギャップには、いつも驚かされる。
そして、今登ってきた道は当時の動線ではないらしく、「虎口」という案内が左の方に立っている。
今は下山口となっているのが、本来の動線か…
少し奥には説明板も立っている。
子どもや若い人たちに何とか見てほしい、という気持ちがにじみ出てる…
北側は、一段低くなっている。
削平っぷりも完全。




さて、雨も強くなってきたし、気温も下がってきたらしい。
そろそろ門限が気になる時間にもなってきたので、退散💨
下山口になっている虎口、よく見ると掘り下げられてるな…🤔
外から見ると、動線が登りながらS字を描いているのが見える。
さらに下ると斜面を斜めに降りるようになり、外側の土塁らしいものとの間に挟まれた堀底状になる😮
この外側の土塁が、思いがけないほど立派なんですわ😮
この堀底状の先で右カーブする。
降りてから振り返ると、主郭の斜面に突き刺さるように登ってきた道が、斜面の裾で左に折られている様子が見える。
この左側が、先ほど降りてきた堀底状。
ここから少し降りたところにもなんか虎口か堀底に見えるところが…
左側の土塁の陰には武者隠しのような空間もある…
そんなことを思いながら歩いているうちに、主郭の斜面の下まで降りてきた。
登り始めの様子を振り返る。
ここからは、城の西側の裾を通って登城口へ戻ってゆく。
途中で、往路で通ってきた馬出らしい曲輪が左手に見えてくる。
あとはこの曲輪の裾を通り抜けて、登城口まで戻った。
見学順路は一方通行だったが、訪問者はワタシの他にいなかったようす…
主郭の手前に巨大堀切状を挟んでデンと置かれた出丸、技巧的な大手道の防御遺構、さらには主郭の周りにも土塁をめぐらして守っているなど、外敵に対する強い警戒を窺わせる城だった。
川中島合戦に絡んで築かれたか修築されたか分からないようだが、参戦した勢力の一拠点にふさわしい城だった。
そして、地滑り災害が城内にまで影を落としているのが…
順路が一方通行とか、門限があるとか、登城に他では見ないような窮屈さが及んでいる様子を見るにつけ、災害を起こしたと見做された現場の苦悩がひしひしと伝わってきた…
【完】
★枡形城
長野県長野市上松
麓の地附山公園の駐車場を利用、アプローチにもトレッキングコースを辿る。
山城
(2024年10月21日 記)