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龍岡城は旧臼田町から東の方、千曲川に注ぐ雨川が山あいから出てくるあたりの平地にある。五芒星の形に「でっぱり」を突き出させた星型要塞は、日本ではここと函館の五稜郭の2つだけという。

ただし、洋式軍学における陣地の構築法を取り入れて築かれた城は、この2つだけではない。


幕末に三河国奥殿藩主松平乗謨が、分領のこの地に龍岡藩を立て、その新たな陣屋として築城した。1864年に着工し、竣工は3年後の1867年だが一部の堀などが未完成だったという。乗謨は幕府の若年寄から陸軍総裁までも勤めた人物で西洋事情にも通じており、洋式の築城術も学んでいたという。

戊辰戦争では新政府方についた龍岡藩は北越戦争を戦ったが、龍岡城そのものは戦闘には巻き込まれなかったらしく、土木遺構はきれいに残っている。建物などは1871年の廃藩後に競売にかけられるなどして多くが移築されたりし、いまは台所のみ残る。1875年に尚友学校が郭内に移転して以降は学校用地となった。

1934年に国指定史跡、2017年に続日本100名城に選ばれた。


猛暑がいつまでも続いて、9月に入って2週間が経とうというのに東京の最高気温34℃とあっては、冷房なしで車中泊遠征するには信州に行くしかあるまいと思い、ちょうど前の週末に道南の戸切地陣屋へ行って星型要塞の勉強をしてきたので、その実地見学といきり立って訪問した。

もちろん北隣の田口城とセットのつもりで💪


現在位置(Googleマップで)

五稜郭公園からは、城の西の「でっぱり」が、もう見える。

近寄ってゆくが、この強烈な日差し…💦


「でっぱり」の先端、しっかり尖っていて、しかもそれが美しい曲線を描いて立ち上がっている。


布積みでてっぺんに刎ね出し石垣という作りは、品川台場と同じだな…

これは雨水が石垣内に浸透するのを防ぎ、塁壁を維持するためのものだそうだ。


星型要塞は防御陣地の中核をなす施設で、高台に置いて有利に砲撃できるようにすること、段丘崖や沢などの地形を取り込んだり築いたりすることで攻撃側の侵入路を狭めること、そこには障害物を置かず見通しを良くして攻撃側が身を隠したり出来ないようにすること、等が基本的な構築法らしい。

ここは高台ではなく、逆に両側を200メートル以上の比高がある尾根に挟まれた谷戸の中。

それでも、少なくともこちら側の「でっぱりの」の前は千曲川沿いまで障害物は無さそう。

 

しばらく進むと、正面に石の橋が見えてくる。


その向こう側には、水を張った堀が石垣の裾を這っていた。

けっこう広い😮

けど、銃火器の有効射程よりぜんぜん狭いから、いざ銃撃戦になっても守備側にあまりアドバンテージは無さそう…


ここまで歩いてきた車道も、堀にしようとしたが未完成だったところらしい…


入ってゆくと、黒門。


かつては郭内は田口小学校の敷地であり公開日以外は入ることが出来なかったが、今は禁止事項を犯さなければいつでも入ることが出来る。

現存する建物「台所」内部の見学は事前予約が必要。

 

ので、詳しく見てみるか…

 

黒門横の土塁は稜堡式らしい直線だが、堀との間の犬走りが幅10メートルぐらいもある…


土塁の断面。

高さ2メートルぐらい、基部の厚さ7メートルぐらい。


土塁の内側に犬走り状の銃兵足場は無い。

土塁の高さが2メートルぐらいあるので、外に向かって銃撃しようとすると土塁の中腹に立たなければいけない。

その代わりなのか、黒門の北に土塁が薄くなっているところがあり、銃座のように見える。

長身の兵なら辛うじて外を見られるか…?


さて、この城唯一の砲台がさきほど見てきた西側の「でっぱり」にあるというので、そちらへ行ってみる…


んだが…


砲台チャン、どこ行ったの?🥺


広い稜堡内の外側が一段高くなってはいるが、戸切地陣屋で見たような砲眼はおろか、大砲を敵弾から守る厚い土塁なども見えない。

 

それでも、この上が確かに砲台なことは…

これは土塁の上に大砲を引き上げるスロープか?


そして…

 

でっぱりの上を均して大砲を乗っけただけだなコレ😮


砲台から南北に伸びる土塁は、こんなんだし…


そういえば、黒門のところから西に向けた作りかけの堀を見たところだと、稜堡は単純な五芒星の一つの「でっぱり」だけだし…

 

砲台は、「でっぱり」の内側を土塁の天端と同じ高さまで土を盛って広い平場をつくり、その上に大砲を置いて使う設計だったらしい。

外からの砲撃から内側の大砲や人員を守る厚い土塁や、そこから大砲の筒先を覗かせつつ広範囲の射撃をさせるための砲眼などの構造は、全く無かった…

 

砲台の南隣には、黒門の横にあったのと同じような、土塁を少しだけ低くして内側を石垣で固めたところがある。

やっぱり、これが歩兵の銃座なのかな…?


実際に立って見たところでは、身長168cmのワタシには稜堡に取り付いた敵歩兵にここから側撃を加えるのは、ムリそうだった…😅

 

旧田口小学校の校舎がある南西側は、土塁が無くなっている。

東へ行くと土塁が再び現れ、その中に穴門があったというが、見えなかった…

台所の写真撮り損なった😂

 

そこから砲台と反対側、東端の通用門へ。

龍岡城の門は稜堡と稜堡の中間の凹んだところにあった。


ここからジグザグに伸びる北側の堀。

この形を見るに、内側に稜堡が入っていたらしい。


では、退城は大手門からにするか。

隣に田口招魂社。


大手門は、他の門より幅広らしい。


ここから眺める堀も、同じくジグザグ。

ここも内側に稜堡があったようだが、砲台の遺構らしいものは西側以外には見あたらなかった。


たぶんこれで大体のものが見られたので、退散っ💨

五稜郭公園に戻る途中で見た北西に突き出した稜堡の先端からの景色、絶景かも✨


で、この城の見どころは、本体だけでない。

北西にある枡形門と、北の山中…田口城内にある五稜郭展望台からの俯瞰に触れないわけにはいかない。

 

まずは、城の北端あたりから北西300メートル足らずのところにある枡形。

 
ガッツリ日本の城の枡形だわ…😮

 
枡形を通り抜けると、五稜郭の西の方を通る道に出る…

 
ここは砲台からの距離がたった300メートルほどで、バッチリ砲の射程内。
こういう中には敵が身を隠せるような障害物を置かないのがセオリーだったはずだが、西洋事情に通じた松平乗謨を以てしても古くからの輪郭式みたいな築城法の呪縛から逃れられなかった…のか🥺

つづいて、田口城内にある展望台に登るぞぃ💨

登城道は田口城の項に譲るが、展望台は直線距離600メートル、比高100メートルぐらいの北側稜線南面にある。
この通り、郭内が丸見え😮

 
西端の砲台。
石垣観察用の大砲📸の、ほぼテレ端。
35mmフルサイズの600mm

 
 これは通用門の方。


この大砲📸、使い方を間違えるとヤヴァいわ…😨

 

この通り、敵方にここを占拠されて大砲を運び上げられたら、100メートルも上からの砲撃にさらされることになる。

ただ、何しろ当時の大砲は重さ数百キロあり、車輪が付いていても道路上を移動させるのに数人がかりだろうし、今でこそ展望台近くまで登る車道が通じているが、重機もない時代にこんな山上まで大砲を運び上げるための道路を敷設できるか、という問題もあるだろう。


松平乗謨がそこまで見越してあの場所を選んだとしたら…

 

★龍岡城

長野県佐久市田口下町

西の五稜郭公園と北の「であいの館」に駐車場あり。展望台へは20分ほど登った田口城内へ。

星型要塞

 

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(2024年10月15日 記)