松前城は道南でも最南端の白神岬ちかくの松前町内、津軽海峡を見下ろす丘の上に広がる。
もともとここには福山館という藩の居城があったが1849年に江戸幕府から海防強化のため築城を命ぜられ、1855年に完成した。同じ年には函館湾の奥に戸切地陣屋も完成、海岸に築いた7ヶ所の砲台を西洋式に改築するなど海防強化がいちおうの完成を見た。1868年の箱館戦争で彰義隊の攻撃目標にされ、藩主松前徳広は事前に館城に撤退して兵百人に満たないながら、彰義隊700名と激戦の末に落城したが、翌年には松前藩兵を先鋒とする新政府軍が奪還した。
1874年には解体され、剥ぎ取られた石垣の一部が麓の福山港整備に使われた。これがいまは土木学会選奨土木遺産。城は1935年に国指定史跡、1941年に天守などが国宝に指定されたが1949年に火災で天守が焼失し、いま建っているのは1961年に鉄筋コンクリートで再建されたもの。
2006年に日本100名城に選ばれた。
高速バスと新幹線の乗り継ぎで北海道に上陸して、まずは戸切地陣屋を訪問、その足で西へ向かったんだが、松前まで遠いのなんのって😅💦
駐車場は本丸からかなり北の方にあるので、本丸の方へは北から近づくことになる。
松前神社まで40mなどの案内がある標柱のところから南の方に、内堀が伸びているのが見えてくる。
右上に再建天守。
標柱の裏側には、かなり大きな土塁。
これは本丸の北側を仕切っていた大土手だろうか。
向こう側は20メートルほどでぶった切られていた💦
近世城郭はどうしても明治後の荒廃や廃城令で取り壊されたうえに都市化・市街化の波をもろにかぶるところにあるので、遺構が断片化してゆくことが避けられない。
この城も、全貌を掴もうとすると遺構のない町中をけっこう歩かされるかな…😅
この大土手の断片の西端に、御影石の城址碑が立っている。
通称が松前城、しかし公式には「福山城」、史跡の名も「松前氏城跡福山城跡」なんね😮
その西隣が松前神社。
往時は御池があったあたりだろうか。
この近くに説明板がある。
この説明板には建物跡の位置が描き込まれた縄張図があって、非常に参考になる。
その南隣が本丸。
今は芝生の広場だが、往時は御殿などが立ち並んでいたのだろう。
天守は、柵の向こう側。
全体の様子は、ここからでも見える。
西隣に門が見える。
これも塀の向こうで有料エリア内だが、安政元年(1854年)に建てられた本丸御門で、重要文化財とのこと。
この本丸御門から西に伸びる土塁の途中、断面に嵌め込まれたこの石垣も、どうやら現存らしい…
その西を仕切っていたのは土塁だが、写真で見えている向こう側は削り取られたようだ…
車道は内堀の前で東に折れてから、また南に進んでいる。
このあたりからが二の丸で、南側に御台所大部屋なる建物が立っていたらしい。
車道の反対側に石垣が積まれているが、絵図には無いもので後補らしい。
だいたい車道も往時の縄張りとは無関係なところを通っている。
御台所大部屋から通りを挟んで東側にも広場があり、高麗門っぽいやつが整備されている。
ここには御番所などがあり、東の端に櫓、その南に搦手御門があったらしい。
御番所の跡は無く、櫓は位置を示すレプリカになっていた。
櫓の跡から城塀が守っている。
南隣には、櫓門だったらしい搦手御門があったが、今は跡形も無い😮
東側の櫓台が一部だけ残っている…
整備され立派な姿を見せているのは、搦手二ノ門。
枡形の外側入口になる門だった。2000年に復元整備されたもの。
搦手二ノ門を出ると、真ん中に松の植えられた島のような盛り上がり、二の丸側は石垣と塀で厳重に守られている。
そして堀を挟んだ下には三の丸が広がる。
東端の番所があるあたり。
間の堀は石垣で固められ、麓からけっこう高いところにもかかわらず水が溜まっている。
ここから振り返る搦手二ノ門の方。
松の生える盛り上がりは、門を隠す蔀(しとみ)の役割があったか…
東の方に見えた高麗門は、城の勝手口になる天神坂門。2002年復元整備。
ここの外側の守りは、土塁。
天神坂門の外は両側とも石垣で固められている。
やっぱり登城者に城の威容を見せるのに石垣の効果は絶大で、不可欠だったのだろうか。
ただ、作りが悪かったか何ヶ所か石が剥がれ落ちている…💦
門の外が、これまたビックリのつづら折れ😮
幕末にあっても、この高低差と急峻さが城の防御力の源泉であったことは変わらないようだ。
ここを降りて下から見上げてみたいところだが、日も傾いてきたし、城外をゆっくり散策する時間は無さそう…
ここからは三の丸を西に進んで、大手から戻ってみっか💨
(松前城 その2に続く)
(2024年10月4日 記)