御平庭北端の真東あたりらしい東外壁塁の切れ目まで見てきた。
このまま東外壁塁を下ってゆくと城下へ降りてしまいそうなので、この切れ目で引き返して登ることにした。
交差点まで戻って、そのまま直進し尾根を登ってゆく。
ここがだいたい東外壁塁の南端で、ここからは山城の世界に変わる。
きついアップダウンになることを心してから登り始める。
(電子国土webの図上に筆者作図)
登りはきつくなって、道は木の階段に変わる。
この尾根上にはたくさんの小さな段郭が造成されているというが…
こんな、六畳一間よりも狭いような平場が、とりあえず3段あった。
その上で尾根の傾斜は緩くなり、しばらくは自然地形のまんまのような尾根上を進む。
そして、再び登りになってくると、こんどは小さな住宅1軒分くらいの立派な曲輪が現れる
けっきょく、ハッキリ段郭と分かったのはこれだけで、間もなく上の方に曲輪らしいところが見えてきた。
その曲輪までは、短いながらも胸突き八丁の急登💦
登り切ると、テニスコートより少し狭いぐらいの曲輪だった。
ここは御茶屋場という曲輪。
奥の方に説明板がある。
ここから上千畳の上の方へ降りてゆく尾根が分岐している。
一段下に、それなりの広さの曲輪が見える。
この尾根は、ここから段郭を連ねつつ降りてゆくらしいが、地形図では上千畳のすぐ上が相当な急斜面っぽい。
直降りは、ちょっと遠慮😅
説明板のところで御台清水方面に戻る道を分けると、再びの急登になる💦💦
5分も登ると、「主水曲輪」という説明板が現れる。
背後に城塁らしいものが見えるが…
近寄ってみると、折れの入った切岸だった😮
その上に、主水曲輪はあった。
これまた、テニスコートぐらいの広さがある。
山懐に抱かれたような感じで、なかなか立派な曲輪。
道は主水曲輪の前を素通りし、さらに石段も設えられたつづら折れの登りが続く。
間もなく、すぐ上にものすごい巨岩が見えてくる。
道はこの巨岩を巻いて上に登る。
こんな、ちょっとした坂虎口状に…
その上の曲輪っぽいところを通過し…
左手に電波塔と小屋を見ながら登ると、正面上に愛宕神社の仁王門が現れる。
中の仁王像とともに江戸時代後期に建てられたらしいとのことで、南会津町指定の有形文化財。
門をくぐると、夏の日差しをいっぱいに浴びた山頂と、朱塗りの小さな社殿が見える。
愛宕山山頂に鎮座する、これが愛宕神社。
中世の鴫山城はここが主郭とのことで、駿河の徳山城ほどとはいかないまでも麓からはずいぶん遠い、孤立したピークを中心に築城されていたものよ。
この山頂と主水曲輪、御茶屋場へと続く北東へのラインと、北主水曲輪への二つの尾根だけを取り込んだ、麓に残る遺構からは想像もできないような小ぢんまりとした山城だったらしい。
ここから西側の外壁塁へと続く西尾根が降りているとのことだが、周囲は崖のように鋭い斜面で、とても入り込めそうになかった。
さきほどの巨岩といい、この山頂といい、地山が岩っぽい、鋭い山容らしい。
引き返しながら北側を注意して探してみたが、尾根らしいものが分岐しているようすは無かった…
西尾根だけでなく北主水曲輪に続く尾根も分岐しているハズなんだが…
で、主水曲輪まで降りてきたところで、ハタと思いついて曲輪の奥へと踏み込んでみた。
過去に主水曲輪から西の方目指して突っ込んでいった猛者がいたらしく、斜面をほぼ真横にトラバースする踏跡らしいものがあった。
もちろんハッキリした道ではないし、ズルズル崩れる土の斜面や浮き石などがゴロゴロあって道迷いや転倒などの危険がある。
ガチ遭難のリスクがあるので、道なき山を地形図とGPSを使って突破する技術のない人が単独で入るべきではない。
何とかトラバースして、かなりの急傾斜で北に向かって下る広い尾根に出た。
後で調べたら、北主水曲輪ではなく西尾根の上の方に登り着いたようだった😅
少し下ると、六畳一間より少し広いぐらいの段郭が連続していた。
西側少し下には、斜めに登る動線らしいものもあるが、城の遺構かどうかはサッパリ…🙄
標高700メートル少し下まで下ったところで、尾根の東側をえぐったような大きな穴が開いていた😮
東の方に細い開口部もある…
さらに下ってゆくと、堀切というには広すぎる裂け目のようなところが…😮
降りていってみると、北側がバッサリ切り取られている🤯
底まで降りて垂直の側壁を見てみると、表面に はつったような痕があった。
これは採石した跡かな…?
愛宕山の山頂に近い方は地山が岩盤っぽいみたいだし、大門にも石垣が使われていたみたいだし…
ここから石を切り出して使っていた可能性はあると思うけど、実際のところは…?🤔
裂け目のすぐ先、地形図では小さなピークが描かれているところに出た。
南の方には、少し削平されて曲輪らしくなっているところがあった。
が、北へ進むと土木工事されたような跡がほとんど無く、自然の尾根そのままのような感じだった。
立地から見て、なかなか目の届きにくそうな西尾根の上の方と主水曲輪や御茶屋場あたりを連絡する役目を担っていたように見えるけど、どうなんだろう…?🤔
ここからはさらに尾根が続いているようだが、降りるとどこへ出るかわからず、そろそろ日も傾きつつあるので、これで戻ることにした…
さきほどの斜面トラバースはもうやりたくないので、東側に見える谷に降りることにした。
地形図では、谷底に山道が描かれているが、いざ降りてみると踏跡も無かった💦
それでも東側に下りる斜面はほとんどが土で傾斜も緩く、さらには斜めに降りる踏跡さえあったので、苦も無く谷底まで降りることができた。
谷底も枯滝や峡谷などの悪場は無く、杉の植林を谷線に沿って歩けるような場所だった。
あるいは、底が一段掘られたようになっているのは、ここに道を付けようとした名残なのだろうか?😮
とにかく、ひたすら谷を下っていると、やがて遊歩道の説明板らしいものが見えてきた。
その手前、右側の段は上千畳の切岸。
降りたところは、矢倉台跡の説明板のあるところだった。
まだ上千畳を見ていなかったが、ここは最後にして西外壁塁を見に行くことにした。
上手くすれば、塁上の矢倉台や土門、さらには外側の出城とかも見に行けるか…?
(会津田島 鴫山城 その5に続く)
(2024年7月9日 記)