青柳城は筑北村と麻績村の境界、四阿山(1387m)から北西に派生する尾根の末端近くの「城山」一帯に遺構を残している。
築城年代は鎌倉時代と言われるが定かでないらしい。中世を通じてこのあたりを治めていた麻績氏の城で、甲斐の武田氏が入ってくるとこれに従い、第一回の川中島合戦(天文二十二年、1553年)では上杉方の攻撃も受けている。武田氏が滅んだ後は越後上杉氏について信濃小笠原氏との争奪の舞台となっていて、幾度か合戦を経験した城でもある。
長野県指定史跡。Wikipediaに記事あり。
秋の三連休を利用してこのあたりに足を伸ばしたこの日だったが、彼岸に入ったのに気温30℃の暑い中で虚空蔵山城に長居しすぎた挙げ句、入城が午後3時頃になってしまった😅
あと2時間もすれば夕闇が来るという切羽詰まった中で、かまわず突入💨💦
東山の集落を抜けると、間もなく右手に広がる広大な畑…✨
この景色を見られただけでも幸せ、というところ✨
さて城へは、さらに城址公園への案内に沿って左折し、林道入口の動物よけを開けて中に入る🙇
すぐに右に曲がると、上に駐車場がある。
トイレがあるが、水は出なかった…
そして、林道入口のすぐ左、森の中に佇む櫓門…
少し下がったところにあるので、どうやって降りてゆくかと考えつつ少し先まで入ると、降り口そして説明板があった。
最初に二重堀切があり、そこからは少し歩くらしい。
城道は、等高線に沿って堀切へぐるりと入り込んでから奥へと向かっている。
その真ん中にそそり立つ巨大な土塁…
何とか、二重の全貌を収めたぜぃ❗
そして、それ以上に感動したのが、北へ落ちる竪堀の二重もハッキリ見えたこと🙌
100メートルぐらい下まで、こんな二重のまんま落ちてるとは、恐るべき土木の力だ…
内側の条は、外側に比べて底が浅く、道も少し登るようになっている。
そして、登りきったところから階段道で登っていた。
こういう道がないとどこから登るか迷うし急斜面だから危ないし…
こういうところの整備は、ホント有難い🙇
階段を登りきると、再び尾根。
道はてっぺんではなく、左寄りに付けられている。
少し進むと、ちっこい堀切らしいところ。
道からではほとんど存在が分からないが、右側の尾根にはハッキリ刻み込まれている。
その先は、尾根がさらに細くなっている。
特に北側の斜面が鋭くなって、今までのたおやかな尾根から雰囲気が一変する😮
この堀切からは、尾根の南へ回り込む道が伸びている。
城址公園を整備する前は、城道はこの堀切の側壁を登って上の曲輪に出ていたと思われるが、整備するときに尾根の南側に伸びていた帯曲輪を通る経路を拓いたのだろうか…
途中には、小さいながらもこんなハッキリした石積みがある。
これは遺構だろうか…?🧐
…と思って周囲を見渡すと、ここは小さな池のようになっていて、よく見ると反対側にも石積みがあった🤯
これは、れっきとした遺構…なのかね?😅
じつは往路で見落とし、帰りに気づいた😅
道はほどなく右に折れて、堀切の底に向けて登っていた。
コレも深く鋭い、見事なヤツ✨
しかし、標柱には『二重堀切』とあるが…?
下には竪堀が落ちていて、ちゃんと標柱も立っていたが、ヤブっぽくて写真では分かりにくくなった…😅
ここも堀底はだいぶ上の方で、道は少し登りになる。
先へは階段で登ってゆくが、その先に続く堀切は少しヤブっぽくなっていた…
公園の歩道が整備されたときに経路から外れただろう、外側の曲輪にも登ってみた。
土の急斜面を登ると、すぐ向こうに堀切…
二重堀切って、もう一本はコイツか🤯
さっき登ってきた堀切と比べるとエライ浅いが、ちゃんと尾根を穿ってる😮
この先は細い尾根のてっぺんを削平しただけっぽい曲輪が伸びているだけで、先ほどの倒木に埋まった堀切に出る。
戻って堀切の向こう側を登ると、いよいよ城の中心部になる。
(筑北 青柳城 その2に続く)
(2024年2月22日 記)