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城内を西へ進み、五の郭手前の二重堀切を越えると、いよいよ城の中心部に入ってくる。

堀切の向こう側への急斜面に設えられた階段で登ってゆく。

 
登り切る直前は、土塁の切れ目に通される。
簡素ながら虎口があったようす。

 
虎口の左側の土塁。
🌿🌿に覆われてはいるが盛り上がっているのが見える。
 
説明板も立っている。
 
虎口から西側に広がる削平地。
細尾根の天端あたりだけを削平したような見た目だった手前の曲輪と、あまり変わらない印象。

 
ここに説明板が立っている。
ここは五の郭といって、この狭い中にも建物があったと考えられるらしい。
 
この曲輪は奥のほうがわずかに高くなっていて、その先が浅い堀切状に抉れている。
ここは土橋で渡っている。

 
肝心の堀切は、
…ほぼ完全にボサの中だった💦
 
堀切の先は四の郭。
歩道以外は下草の茂る森だが、両側数メートルが削平地らしい事はわかる。

 
そして、曲輪を抜けると…
 
そう来たか😮
 
曲輪から一段下がったところ、おそらく三の郭の真ん中あたりに、城柵と冠木門が整備されていた😮
 
寄せ手の侵入を防ぐなら奥に見える段の縁にあったほうが良さそうだが、土の遺構を壊さないための配慮なのだろうか…
何しろ史跡指定されているので、色々考えられた結果なのだろう。
 
この左側には、居館のあった清長寺からの道が登ってきているが、崩落などがあったか立入禁止になっていた…
 

さて、門をくぐって二の郭へ。

左に寄ったところに、段に登る動線らしい坂。

 
登ってから振り返ると、ごくちっこい枡形のように低く、右へ折れつつ登るようになっている。
 
上の二の郭は、そんなに広くはない。
バスケットボールのコートぐらいか。
主郭の前に張り出すように構えていて、馬出あるいは丸ごと枡形のような役割だった…?
 
ここから見上げる主郭は、そんなに高くはないけど、寄せ手から見れば頭上から攻撃されるところ。
斜度も急で、攻撃をかわしながら直登するのはムリだろう…

 

そして、その一番奥にお楽しみがあった。

まずは、入り口の説明板。

 
石垣…
 
というわけで、奥に入る。
 
ホントだ🤯
下調べして来いよな〜😮‍💨
 
櫓門のところの説明板にも描かれているがちゃんと見ていなかったので、この出会いはビックリだった😅
信州ではよく見かける、平べったい石を積み上げたもの。
コレ数えたくねー😵‍💫
 
近寄ってみると、間詰石が入っているところもある。
中までは見えないので裏込め石が入っているかどうかまでは…
 

ゆっくり調べながら見てみたいが、残念ながら日没が迫ってきてる💦💦

 

戻って主郭へ登る💨💦

 
主郭への道は、人ひとりがやっと通れるぐらいの細さ。
急斜面を斜めに登ってゆくように付けられている。

 
虎口の向こうにあずまやが見えている。
枡形はあっても気持ち程度か?
 
そんな感じだ。
普通の家の玄関ぐらいの範囲を多少掘り下げているぐらい。
 
登った傍らに立つ説明板。
これでも武田氏が川中島合戦のときに在陣した頃のものと考えられているらしい。
戦国時代でも個々のパーツは意外とシンプル😮
 

そして主郭。

すぐにあずまや。
すっかり公園の雰囲気
ここ一応城址公園…

 
奥に見える石碑は、城址碑と思ったら「皇太子殿下御降誕」とあった😮
昭和八年とあるので、今の上皇陛下の御生を祝ったのだな…
 
さて、主郭の西端、柵の前は一段高くなっている。
ここが城内最高点。

 
三角点があった。
「城山」という三等三角点だった。
 
さすがに山の頂から眺める景色は広々🙌
見えているのは、手前に筑北村と麻績村の境界付近、奥の山稜は聖山から南西に伸びる尾根。
 

こういう眺望は、城にとっては生命線だろう。

麓からこれだけ比高のある城に車でアプローチ出来て主郭まで高低差ほとんど無しというのは、じつに有難い。

ぎゃくに往時は今通ってきた尾根から簡単に侵入できるということだから、尾根上に堀切などを穿ちまくって防御していたという事なんだろう。

麓を通る善光寺西街道(北国西脇往還)は中山道と北国街道を結ぶ重要な街道で、この城が置かれた目的の一つに街道の監視があったらしい。この城が歴史の節目に幾度か争奪戦の舞台となったことも、何となく分かるような気がした。

 

さて、日もだいぶ傾いてきた💦

撤収っ💨

 

★青柳城

長野県東筑摩郡筑北村坂北

櫓門の前で防獣柵を開け、反対側に入ると駐車場。

山城

 

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(2024年2月25日 記)