志賀城は、佐久市街から志賀川に沿って東に5kmほど入った右岸側の山上に構えている。
信濃に侵攻した武田晴信が、山内上杉家の影響下にあった在地領主の笠原清繁が守るこの城を天文十六年(1547年)に攻撃した時には、北方の小田井原の戦いで討ち取った上杉方の首級三千を城下に並べて威嚇するなどし、陥落させた後は生け捕った者たちを悉く奴隷として売り払ったという、悲劇の舞台でもある。
こんな残虐な話の伝わるこの城に土足で踏み込むのはなかなかに恐ろしいが、まだ6月だというのに気温30℃を超え夏至の強烈な日差しが降り注いでいたこの日、準備を整えて登城することにした。
麓には明応八年(1499年)開創の雲興寺がある。
この寺は笠原清繁によって再建された。
往時は居館があったようで、寺を再建した上で隣り合うように居館を設けたか…?
寺の裏手にある城への入口には案内がなく、ちょっと分かりづらい。
すぐに墓地になるが、山の方、山の方へと登ってゆく。
道の脇に、こんな立派な城址碑✨
この城址碑の前の道を、とにかく進んでゆく。
麓の方は枝道が多く、登ってゆくとこんな撫で肩になったり、倒木で塞がれていたりするが、道自体は悪くはない。
10分も登って、上の方に屏風のような壮麗なガケが見えてくれば、正解だ😮
このガケが、城の南側を守っている。
道はガケの下西に回り込んでから、なおも登ってゆく。
途中のコーナーの上には、低いながら石積みも…😮
その上に控えるコイツは、露岩だろう…
先ほども主郭部下の大きな露岩にビックリさせられたが、この山は薄い表土の下がすぐに露岩らしい…
ここから、城道は尾根に登ると見せかけて、西に水平に伸びている。
小枝を積み上げて塞いでいるところに出るので、ここは右上に折れる。
が、この奥にも段郭があるので、入ってみる。
20メートルも進むと、道が少し広がっただけのような細長い曲輪に出くわす。
上には帯曲輪も…
この帯曲輪までで人の歩ける平場は消えていて、なおも突っ込むと森の中の急斜面になる💦
山慣れない人が歩けるような場所ではないので、ここは素直に枝を積まれた分岐まで引き返して、トレイルを辿った方がいい。
で、ワタシは枝の積まれたところが分岐であることを見逃したせいで、帯曲輪の先へ突っ込んでムリヤリ尾根に詰め上げたのはナイショで🤫
城道は、この曲輪の上を通って、間もなく尾根に詰めあげる。
左手に広がる曲輪の上端あたりになる。
右へ行くと主郭、左へ行くと西の末端の方になる。
曲輪には大岩が転がっていて、少々凸凹している。
尾根の上端を削平しただけのようで、建物などを置くには狭い。
まずは西の末端に向かった。
道は曲輪の南側少し下を通っていて、末端では急坂で下る。
振り返ると虎口のようにも見える😮
その横、曲輪の突端下には小さな堀切があった。
堀切の外にも、尾根を削平した細長い曲輪が続く。
結構な人数が駐屯できそうで周囲の斜面も急峻だが、主郭側とこちら側の真ん中に大手道が登ってくるので、侵入してくる寄せ手の勢力が圧倒的だと城内が東西に分断されてしまいそう…
末端の方も面白くて、だいぶ時間を食ってしまった…
主郭の方に行くかーっ💨
(佐久 志賀城 その2に続く)
(2022年12月20日 記)