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市場城は、豊田の町から国道419号を北に入った小原地区の山中にある。

文亀二年(1502年)に三河鈴木氏の鱸(鈴木)紀伊守親信が足助から移ってきて築いた城との事。

本丸の周囲に石垣、北側には畝状竪堀群があって、土と遺構の両方を楽しめる山城だが、このような形になったのは1583年に鱸重愛が改修してからという。

そして9年後の文禄元年(1592年)には、権勢を誇って豊臣秀吉もしくは徳川家康に従わなかった咎を受けて城を追われたのだという。

 

入口近くに駐車場もあり、説明板が立っている。

入口も実に分かりやすくて嬉しい😆


しばらくコンクリ舗装された坂道を登る。

城内も多くの場所はきれいに整備されていて、ヤブコギなどの心配はない。


城には数分で辿り着く。

説明板のある辻が城のトバ口。


説明板には縄張図が描かれている。

主な曲輪の名前も書かれていて、位置がすぐ分かるので嬉しい😆

曲輪の名前で写真ファイルの名前付けをしているので、これが分からないと整理が大変で…😅


順路は右に進むようになっているので、まずはそちらにある供養塔の方へ回ってみた。

少し進むと、最初の尾根のところにちっちゃな石仏。


その上には、大きな岩が転がっていた。


この上には二の丸が広がっているので、コレは石垣代わりか…?😮

中世の城では大岩を虎口や切岸に利用している場面がけっこうあるが、コレもかな…?


更に進むと、奥の方に鳥居が並んでいるのが見えてくる。

足元には、斜面を落ちてゆく竪堀のようなやつ。

下の方が森の中で、末端まで見えなかった…


赤い鳥居が並ぶ中には、城主の供養塔があるとの事。


入ってみるが、祠とか石仏はあるけど塔のようなものは無いな…


一番奥の祠。


左側には石仏がズラリ…


右側の大きな岩に、祠とか色々なものが…

これが供養塔か?


祠も石仏もキレイで、今も大切にされている様子😊
鱸重愛は権勢を誇った挙げ句に城を追われたことになっているが、こうして歴代の城主が大切に祀られているところを見ると、地元に忌み嫌われていたような様子は無さそうに見える。
事の真相は、そう単純なものでは無いのだろうか。

 

城道に戻って先へ進むと、登り坂の右側に高い塚が見える。


この先は空堀になっていて、城道は底を通される。


先の方には、お楽しみの1つ目、石垣が見えてくる。


この石垣は1583年に改修されたときのものだろう。

 

登り切ると、左側に二の丸。

かなり奥行きがあって細長い。


先端の一段低いところにも曲輪。


南側に土塁が降りていっている😮


二の丸本体には、周囲に土塁などは全く残っていない。

下段に降りるのは面倒くさそうなので、櫓台石垣に戻る😅

櫓台の上には本丸石垣が続いていた。


その南側、なんかガチャガチャに乱れていて、崩れやしないかとオッカナイ💦


そして奥の方は土の切岸だった。

これは大手道に面した側だけを覆った、「見せる石垣」ってやつか…?🤔


本丸へは、石垣の脇につけられた坂虎口っぽいところから入る。

いちおう坂虎口の造りだな…


この本丸石垣、天端が曲輪面より高い😮

見せるためだけでなく、ちゃんと曲輪を守ってるのネ…


そして本丸🙌

野球場ぐらいは出来そうな、相当な広さだった😮


真ん中北の方に城址碑


そして説明板も。

さて、北側に搦手らしい通路があるので、帰りはここから攻めるか…
実は、この先にあるものは事前に全く調べておらず、入口にあった縄張図もよく見ていなかったので、このあとビックリさせられる事になった…😅

三河 市場城 その2に続く)


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(2022年3月22日 記)