じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
文語で俳句を作ることの多い人は、口語俳句にドキッとすることがあるのではないだろうか。
私も、この句をはじめて読んだときは驚いた。
掲句は普段話している言葉をそのまま俳句にしたような、気軽に触れることの出来る句。
スッと心に入り込んで、とても近い場所で寄り添ってくれる。
読み手と句の距離感により、作者の想いをストレートに感じることが出来る。
これは口語表現の非常に大きな魅力であると私は考えている。
作者は蛍になりきって、蛍の気持ちになってこの句を詠んだ。
そう解釈するのが自然なのだろう。いわゆる擬人法である。
けれど他の読みとして、作者が蛍に語りかけているという可能性はないだろうか。
「生まれたの」の「の」をどう捉えるかで、見えてくる景は変わってくる。
「生まれたの」とぽつりつぶやく蛍。
それに応えるように、子どもに語りかけるように「そうなの。生まれたの」と、蛍と会話をしている作者。
同調の「の」である。
そんなやさしい景色も浮かんできそうだ。
また、じゃんけん「で」が「に」とされなかった点にも着目したい。
「じゃんけんに負けて」というと、蛍に生まれるかどうかを決めるために、じゃんけんが行われたようにも読める。
蛍に生まれるという目的があって、そのためのじゃんけんである。
しかし「じゃんけんで負けて」ではどうだろう。
なんとなくじゃんけんをして、たまたま負けてしまって。
「じゃあお前、蛍ね」というくらいの軽さで、蛍に生まれていた。
もしくは、じゃんけん以外は勝っていたのかもしれない。
他のことでは勝っていたけれど、じゃんけんでは負けてしまった。
そう考えることも出来る。
たった一字の助詞で句の印象は大きく変わるし、想像も膨らむ。
蛍に生まれるか人間に生まれるか、そんなことはじゃんけんで決まるような些末なこと。
蛍でも人間でも、他のどんな生物でも。
生まれた以上、命の限り生きる。
どんな場所でもどんな境遇でも、とにかく生きるのだ。
気軽でやさしい雰囲気に惹かれて一歩踏み込んでみると、一転、作者の強い想いが感じられる一句だった。
(実は私、蛍を見たことがありません。よって、私にとって「蛍」はそれこそ「雪女」みたいな季語です。来年こそは蛍が見れますように)
笠原小百合 記