あだち充作品と落語の共通性。

クロスゲーム
最初は昨年の春頃に、
日曜日に放送してたアニメを偶然観たのがきっかけでした。
しかも、一話からじゃなく、
大分進んだ辺りの途中のシーンから観始めた感じだったんですね。
で、何となく何回か観ていると
「なんで、オープニングで見たことない子が出てくるんだろう?」
って、感じで気になって調べてみたら、
いきなりその子が、一話であっけなく事故死してたのを知り
それが気になっているうちに最初から観るようになって
ハマってしまった、
あだち充の漫画です。
少年漫画の単行本は滅多に買わないんですけど、
この本だけは全話新書で一気買いしてしまいました.
といっても、あだち充って
この作品を観るまで、全然好きな漫画家じゃなかったんですね。
なんか、作風の印象が
「絵柄が同じ」
「古臭いイメージ」
「ワンパターンな展開」
「リアリティーの無い臭すぎるセリフ」
という固定観念が強くて、
ネームバリューがあるから売れてるだけなんだろう…
って、勝手に思っていたのです。
だけど、実際に漫画の中では、
全然違うキャラクターに見えてしまうんですね。
作品を読んで目が肥えて見分けられるというのでもなく、
性格の違いもちゃんとあるし、
絵柄のタッチも、物凄く似ているけど、
ほんのちょっと違う。
あと、
ワンパターンな展開っていうのはそのとおりなのですが、
これは意図的にやっているのではないか?と
逆に思うのです。
この人の作品で、よくあるシーンが
「河原の土手で女の子が不良達に絡まれる所を
主人公が助けるシーン」
とか、
「道端を歩いてたら、突然強盗が現れて、
そいつにボールを投げ当てて気絶させるシーン」
というのが必ずといって良いほど入ってるんですけど、
はっきり言ってこれは、80年代の漫画の作り方です。
ひょっとしたら、70年代かもしれません。
現在の新人作家が、このような話を作ったら
ネームの段階でハネられるでしょう。
だけど、
あだち充の凄いところは、
こういった古い話でも、
作品として成立させてしまうことなのです。
しかも、レトロ的な評価ではなく、
現在でも通用する力量での評価です。
このような同じシーンの繰り返しでも
面白さが薄れないのは何故か?
それは、落語における「噺」の作り方を
参考にしているんじゃないか?と思うようになりました。
古典落語の場合、
すでにストーリーは決まっているわけで、
変える部分はほとんどありません。
そして、誰でも笑えるように出来ています。
だけど、
プロの場合、噺の中でセリフの間合いや、
言い回しを微妙に変えることで全く別の雰囲気を作るのです。
場の雰囲気で、アドリブで喋ったマクラの噺を途中で織り交ぜたり、
客のちょっとした反応を拾って笑いに繋げるなど、
いろいろな手法があります。
逆に全く遊びを入れないで、
一切噛まない流暢な口調で喋り切るという人も居ます。
有名な噺「時そば」を例を出せば、
非常に流暢な流れで一切セリフを噛まない正統派の桂文朝
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6778166
マクラに定評があり、噺を現代風にアレンジする柳家喬太郎
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6899470
大胆ににアレンジし、原型を留めないほど改作する立川談笑
http://www.nicovideo.jp/watch/sm968396
噺は全く同じでも、
全く別のものとして組み立てられるのが落語なのです。
あだち充作品が他の作家と違う一番大きな部分は、
ストーリーものの漫画だと、大きな目的があって、
話が動くところで面白くなってくるものなのですが、
彼の場合、話が何も起こらない、極端に言えば、
今読んでるエピソードを本編から削ってしまっても、
作品が成立してしまうぐらい
何も無い話を描いている時の方が
逆に面白くなってしまうのが不思議なのです。
なので、あだち充が、本当に描きたい部分は
ストーリーそのものではなく、
作品の世界の「空気感」なのではないか?
と思うようになりました。