先ずはいつもの紙芝居をよろしければご覧ください
秋の会献立
昔、江戸の町ではどんな野菜を食べていたのでしょうか?またその野菜、現在のものと名前は同じでも内容的に同じものなのか?それとは違うとしたらどこで変わってしまったのか?など江戸期から江戸やその周辺で作られた野菜(『※江戸・東京野菜』について『江戸の蕎麦』同様、江戸食文化変遷の一つとして興味があります。
※『江戸・東京野菜』とは江戸時代から昭和40年代頃まで、東京都内の産地で数世紀以上にわたって栽培されていた固定種(自家採種した種子からほぼ同じ形質のものが育つもの)の野菜を言います。(江戸東京野菜コンシェルジュ協会)
今回も夏に続き江戸東京野菜コンシェルジュ協会と江戸ソバリエ協会が共同主催し、総本家更科堀井 麻布十番本店で行われた『四季(秋)の会』に参加し、更科蕎麦と江戸東京野菜の旬との共演を楽しみながら学ぶ機会を頂きました。因みにこの会は、毎回旬の江戸東京野菜から料理研究家 林幸子先生がレシピを考案され、そのレシピに基づき、その料理を更科堀井が用意する形式になっています。参加者は、その林先生が主宰する「アトリエ グー」、江戸ソバリエ協会、江戸東京野菜コンシェルジュ協会の各会員の方たちとなっています。2日間同じ内容で開催され、各20名定員となっています。
更科堀井本店入口付近
更科堀井1階奥が会場です
今回供せられた『江戸・東京野菜』
いつものように最初に江戸東京・伝統野菜研究会 大竹道茂 代表(写真左)より今回の江戸・東京野菜について説明を頂戴し(写真右は司会進行役の江戸ソバリエ協会ほしひかる理事長)、その後前述の林先生より本日の献立の説明がありました
この会では飲み物は各自注文の各自精算となっていますので、いつもどおり福島の酒辛口『純米吟醸 名倉山(なぐらやま)』をオーダーします
甘さを感じる※『千住ネギ』は食べ放題です。
※『千住ネギ』
千住ネギは、江戸時代、砂村(現在の江東区北砂・南砂)から、千住に伝わってきた根深ネギ。千住はねぎ産地であったことから、集積地になり千住ネギの産地が他に移った後でも、千住に入荷したネギ(「千寿ネギ」はF1の別品種)を千住ネギと呼ぶ傾向にありますが、いわゆる「千住ネギ」の品種が残っています。(JA東京中央会HPより)
皿の右手前かどに人参につける塩
⑴※❶滝野川(長い)と※❷馬込(短い)(生人参の)味比べ
❶は香り豊かな懐かしい味❷は現在のものに近い味だと感じました。
ニンジンの原産地 ニンジンの原産は中東のアフガニスタンといわれています。
または人参に蕎麦味噌をつけて食べます
※❶滝野川(大長)ニンジン
現在の豊島郡滝野川村(現在の北区滝野川)付近で栽培されたため滝野川ニンジンと呼ばれるようになりました。根が長い品種で、長さは1メートルにも及び、淡紅色で香りが強く肉質がしまっている。(10月中~12月下) 江戸東京野菜コンシェルジュ協会資料より
※❷馬込(三寸)ニンジン
大田区西馬込の篤農家の品質改良により生まれた10cmほどの人参。この三寸人参の元となる西洋種の人参が伝わったのは明治初期の頃でそれまでは滝野川人参に代表される長さ1mもある長人参が主流だった。(10月中~12月下) 江戸東京野菜コンシェルジュ協会資料より
⑵※内藤南瓜と蕎麦掻の重ね
このかぼちゃはかなりねっとりしていて現在のほくほく系のものとは違います
※内藤南瓜(ないとうかぼちゃ)
江戸時代の大名内藤家の下屋敷(現新宿)で生産されたかぼちゃ。
早生種で色は黒っぽい。初実は緑色。熟すに従い淡赤黄色に変化。晩熟は果実の表面に真っ白い粉がでる。果肉は厚く、外皮は薄い。ヘタの断面が五角形で肩がもりあがり、また実を裏返して花落ち部分をみると全体が菊の花の様。そこから「菊座」といわれるようになった。内藤家の下屋敷(現新宿)で生産された内藤かぼちゃは宿場の名物になり、周辺農家に発展し、角筈(つのはず)村、柏木村で地域野菜として定着していった。(JA東京中央会HPより)
⑶※❶品川蕪(かぶ)と❷豚バラの重ね
豚バラ肉は今回、沖縄の☆今帰仁アグー豚を使用
※❶品川蕪(かぶ)
江戸から東京にかけて、主な副食が漬物であったころの蕪で、秋に収穫します。現在の北区滝野川付近で栽培されていたことから、「滝野川蕪」と言われていました。 江戸時代の滝野川と品川は土地が非常に似ていて、品川で作られた物は「品川蕪」と名付けられました。 築地市場で「江戸野菜の復活」の取り組みを知った北品川の八百屋経営者が平成16(2004)年に調査を始め、江戸時代に書かれた農書「成形図説」の中にある品川カブの絵を元に、東京都小平市で「東京大長カブ」という形が良く似たカブを栽培していることを見つけました。このカブを「品川カブ」として販売したいと思いました。「成形図説」の絵が根拠となり、生産者、市場、江戸野菜の研究会から認められ、自社店舗での仕入れ販売をしています。(JA東京中央会HPより)
※❷今帰仁アグー豚
今帰仁アグーは、西洋種との交配を一切していない生粋の黒豚であり、一般的な豚と比べ、低コレステロールでうま味成分のアミノ酸が豊富に含まれているのが特徴です。
⑷馬込三寸人参梅冷掛け
人参と梅と塩味のベストマッチ、さっぱりとしていて食が進みます
⑸※❶三河島菜と忍び穴子の搔揚げ
※❶(青首)三河島菜
江戸時代の三河島は江戸近郊の農村地帯でした。そこで栽培されたのが三河島菜であり、代表的な漬け菜として江戸の食文化を支えました。しかし、白菜の普及とともに市場での扱いが激減していき、いつしか生産が途絶えてしまいました。白菜に駆逐された形となった三河島菜は絶滅したと考えられていましたが、江戸時代に仙台藩の足軽が参勤交代の際に江戸から地元に持ち帰り、現在でも宮城県内で栽培され、仙台朝市などで販売されていることが平成22年(2010)に判明しました。それが仙台伝統野菜のひとつ「仙台芭蕉菜」であり、在来種である青茎の三河島菜にあたることが最近になって古文書により確認され、里帰り復活することとなりました。(JA東京中央会HPより)
右は唐辛子切り、左は二八そば
⑹※❶内藤唐辛子切り
今回薬味はワサビではなく貴重な『江戸城濠(ほり)大根』(辛み大根、出雲おろち大根)にて蕎麦をたぐりました。これは今年から栽培が始まったもので葉は大きく繁っているものの、根の部分の生育にまだばらつきがあるとのことでしたが貴重なものを食すことができました。
※❶内藤唐辛子
内藤家の菜園(後の御苑)から広がった野菜の一つ。品種は八房(やつぶさ)トウガラシ。「内藤新宿周辺から大久保にかけての畑は真っ赤に彩られて美しかったという。」(「新宿の今昔」より)。 当時は成熟したものを漬物用や香辛料として使われていました。参勤交代のために江戸に屋敷を構えた各地の大名たちは、やがて下屋敷で故郷の野菜を栽培するようになり、現在の新宿御苑とその周辺に家康から受領した約20万坪以上もの屋敷を構えていた内藤家(後の高遠内藤家)では、内藤唐辛子や内藤南瓜をはじめとする野菜が作られました。
とくに唐辛子に関しては、文化7年(1810)から文政8年(1825)にかけて幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」において、「世に内藤蕃椒(とうがらし)と呼べり」と紹介され、近隣の畑一面を真っ赤に染める光景は壮観だったといわれています。また江戸の食に欠かせない調味料として、❷七色唐辛子などで広く親しまれてきました。唐辛子売りの口上に、「入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子」ともうたわれていることでもその普及ぶりが想像されます。(JA東京中央会HPより)
❷七色唐辛子
七味と呼ぶのは上方風、江戸では七色唐辛子と呼ばれた
更科伝統のそばつゆ
蕎麦湯には千住ねぎをたっぷりと入れました
⑺※❶禅寺丸柿(ぜんじまるがき)のパイ
昔、和菓子の甘さの基準はこの柿とのことです。このホイップされた生クリームはシナモン、オールスパイス、クローブをブレンドしたもので柿の品の良い甘さを引き立たせていました。
※❶禅寺丸柿(ぜんじまるがき)
禅寺丸柿は、日本で最古の甘柿で、鎌倉時代の建保元年(1214)に、現在の神奈川県川崎市麻生区にある星宿山蓮華院王禅寺の山中で自生しているものが偶然に発見されたものです。往時の多摩丘陵の中西部にあたります。それまで、日本には甘柿はなく、日本最古の甘柿であるとされています。神奈川県の「王禅寺」で発見され、果実が丸みを帯びているので、「禅寺丸柿(ぜんじまるがき)」とされたようです。
江戸時代には、多摩丘陵中西部で広く栽培され、甘く美味なため江戸にも多く出荷されたようです。江戸時代は水菓子(当時の江戸では果物のことを水菓子と言いました)としてもてはやされ、多摩丘陵のこの地域は禅寺丸柿の一大産地として知られるようになり、江戸にも大量に出荷されたとのことです。(JA東京中央会HPより)
今回も江戸から東京に続く伝統野菜について江戸蕎麦同様学びながら食する機会を得られた事に感謝しつつ、次の冬の会を楽しみにしたいと思います。