柴田正人騎手とウイニングチケット
競馬会には、色々なエピソードがある。
馬券を買って、ゴール前で「そのままぁっ!」とか「まくれっ!」とか叫ぶのも
競馬の楽しみの一つであろう
しかし、オイラは基本的に博打は嫌いなので、エピソードの方が好きである。
そのエピソードの中でも心に残っているものを少しずつブログに書いていきたい
ウイニングチケットは、名前が好きで追いかけていた馬であった。
「勝利への切符」とでも訳すのであろうか…
「ウイニングチケット列伝」という本を読んで心に残った場面を記憶から引き出して書いてみます。
柴田正人騎手は、オイラが大好きな騎手の一人である。
柴田騎手のことを調べれば調べるほど、どんどん好きになっていく
大ファンである。
柴田騎手が、イギリス人の騎手であれば
女王陛下から「騎士」の称号を賜っていたのでは?と思えるほどである。
競走馬、ウイニングチケットは、
「柴田にダービーを取らせるために生まれてきた競走馬」
なんていう人も多々います。
しかし、オイラはそうは思わない
生産者の藤原牧場の人々、名伯楽の伊藤調教師、そして柴田正人騎手の思い…
客観的に見れば、一つ一つの点が段々と1つの線になって
その先が第60回日本ダービーの勝利へと繋がっていると思う。
ウイニングチケットと柴田騎手との出会いは、札幌の新馬戦である
伊藤調教師は、柴田騎手にウイニングチケットを乗ってもらいたかった
伊藤調教師は、夏競馬では北海道を主戦においている
柴田騎手に乗せたいがためにウイニングチケットを札幌に連れて行ったのである。
しかし、新馬戦でウイニングチケットは負けてしまったのである。
柴田騎手は、素質馬であるウイニングチケットを勝てさせなかった責任を大いに感じていたが
伊藤調教師は諦めないっ!
次週も新馬戦にウイニングチケットを連戦させたのである。
しかし、柴田騎手は海外遠征のため乗りたくても乗れなかった
その新馬戦では、横山騎手が騎乗し初勝利を挙げたのである
めでたく、勝利を挙げたウイニングチケットの次のレースは重賞レースである
その重賞レースにも、柴田騎手に伊藤調教師は騎乗依頼をする
しかし、運が悪くその重賞レースで柴田騎手の騎乗馬は決まっていた。
柴田騎手にとっては断れない騎乗馬だったらしい…
伊藤調教師は、困った。そして考えた…
ここで、横山騎手に続けて騎乗させたり、関西の騎手に騎乗させたりしたら
柴田騎手は、2度とウイニングチケットに騎乗することはないであろう…と。
柴田騎手は、他の騎手から「奪ったり」「横取りしたり」することは
絶対にない騎手でした
これには、柴田騎手が、若いときに体験した悔しいエピソードにある
そのエピソードとは。。。
若き日の柴田騎手は「アローエクスプレス」と言う競走馬と出会った。
アローエクスプレスはクラッシクも勝てる素質の馬であり関東の代表馬であった
しかし、関西には「タニノムーティエ」と言う代表馬がいた
この二頭の直接対戦は、スプリングステークス
柴田騎手騎乗のアローエクスプレスは負けてしまったのである
柴田騎手は、寝ても起きても、タニノムーティエにどうしたら勝てるのかを考えていたらしい
そんな時、師匠である高松調教師にアローエクスプレスからの降板を告げられる。
当時関東一の騎手とされていた加賀武見騎手への乗り替わりである
スプリングステークスでの負けは、高松調教師も柴田のせいではないと言っている
柴田騎手は、飲めない酒を飲んで師匠である高松調教師に抗議した
このときに、師匠から殴られる覚悟で抗議しに行ったと柴田騎手は話をしている
しかし、高松調教師は柴田騎手の想像を遥かに超えていた
「政人、誰よりもアローにお前を乗せてやりたいと思っているのは、この俺だ。
だが、アローはお前の馬じゃない、俺の馬でもない、関東のみんなの馬だ。
関東一のアローが、関西一のタニノムーティエに勝つためには、
関東一の騎手じゃないといかん。悔しかったら、政人、加賀武見を超えてみい」
と涙を流しながら高松調教師は、柴田騎手に言ったのである。
なんと言う凄い師弟関係だと思うし、このエピソードがあるからこそ
柴田騎手は、奪ったり、横取りしたりしない騎手だといえると思う。
伊藤調教師もこのエピソードは知っていたのであろう
代打として、田中勝春騎手にウイニングチケットの騎乗を依頼する。
しかし、追い込みのレースという条件をつけたらしいが
ウイニングチケットは何事もないようにそのレースに勝利する。
伊藤調教師の柴田騎手に対してのラブコールはまだまだ終わらない。
なかなか首を縦に振らない柴田騎手…
新馬戦で勝てなかったこだわりと、
関東の騎手が関西の馬の主戦騎手になる負担などなど…
しかし、諦めの悪い伊藤調教師はここで勝負に出る
行動で示すのである
関西のレースを捨てて、関東の中山のレースに
ウイニングチケットを出走させるのである
関西のレースのほうが輸送もないし、賞金も高い
中山のレースは皐月賞と同じ距離、同じ場所というだけである。
どれだけ、馬主に頭を下げたのであろう…
また、馬主が伊藤調教師の想いを理解したのであろうか…
普通では考えられないことである。
流石の柴田騎手も、伊藤調教師の情熱には心を打たれたのであろう。
デビュー戦以来にウイニングチケットの騎乗を決めたのである。
伊藤調教師が柴田騎手の鞍上にそこまでこだわってくれた恩いに報いるため
「来年のクラシックは、この馬で行きます。これからは、私の全部の騎乗予定は、この馬に合わせて決めさせてもらいます」と約束する
日本のトップ騎手が、自分の騎乗スケジュールを一頭の馬のため調整すると言っているのである
重い言葉であり、信頼関係なしでは言える言葉ではないであろう
この言葉こそ、柴田騎手そのものであると思える。
ここから本当の意味での「勝利への切符(ウイニングチケット)」の道が始まるのである。
競馬で1000万馬券が出た
久しぶりにブログを更新する
オイラは、競馬が好きだ
競馬好きというと、ギャンブラーみたいだが
賭け事は、嫌いだ。
しかし、この前の秋華賞では1000万馬券が出たみたいだから買っておけば…
と、思ってしまう。
競馬が好きというより、「競走馬」が好きだ。
競馬の馬との出会いは、大学の頃であった。
その頃、足を怪我をしてしまいリハビリ中であった。
早く治りたかったのもあるけど、一緒にリハビリしている
障害者が頑張っているのを見ていると「負けてたまるか」
と言う気持ちになり、オーバーワークでした。
そんな頃、柔道の先輩に中山競馬場に連れて行かれた。
この先輩とは、オイラが柔道を始めた3歳からの付き合いで4つ上の先輩
高校を卒業して働こうと思っていたオイラを進学させた張本人…
なんと言っても、逆らうことのできない人物である
お決まりの台詞は「俺が、お前に損をするようなことを子供頃から言ったことがあるか?」
確かにそうだ、オイラの人生においてこの先輩こそ正しい道に導いてくれていたと思っている
しかし、ここは中山競馬場っ!
その頃のオイラから見れば、「鉄火場」だった…
しかも雨が降っていて、気持ちはブルー… 足も痛いし…
ここで、その先輩が鬼のような一言を口にする
「でり(本名)は、今財布にいくら持っている?」
えっ?こんなところでカツアゲか?
現役の頃であるから、いつもなら負けないのだがなんと言っても足が痛い…
しかも、逆らえない先輩の言葉…どうするっ!
なんと思っているうちに、財布を取り上げられた
持っていたお金は、2万円ぐらい
全部取られました _| ̄|○
そのお金で、先輩は馬券を買いました
「ほら、お前の分だ」と持っていた金額分の馬券をもらった
お金が、馬券に変わった… 泣きそうになりました
そして運命のゲートが開きました。
場所は中山競馬場っ! 凄い雨が降っていて田んぼみたいな感じ…
双眼鏡で見ていたら、オイラの買った馬は一番後ろを走っています
こんな馬に、オイラは有り金全部を賭けたのか?
学生の頃ですから、2万と言えばどうにかなるお金ではない
そのどうにかなるお金を賭けた馬は、一番ビリを走っています
この先輩に殺意がわいてきました…
しかし、最終コーナーの近くで、オイラは奇跡を見ました
ビリを走っていたオイラの買った馬が、どんどん前の馬を抜いていきます。
田んぼみたいな、競馬場で泥だけになりながら…
一頭、また、一頭 と、どんどん抜いていくのです。
そして1位でゴールした。
凄く嬉しかった。
その馬の名前は「ミスターシービー」でした。
シンザンいらいの、3冠馬です。
追い込み馬のため、いつもは一番後ろを走っていて最後にすべてを抜いてくる
カッコ良かった。
オイラの見たそのレースは第43回皐月賞でした。
先輩から言われました
「マイペースって、凄いだろ?自分を信じれば、どんな状態でも最後には勝てるんだぞ」
重い言葉だったし、先輩がオイラのことを思っていてくれたことがはっきりわかった。
競走馬であるミスターシービーにたった1日でいろんなことを教わった気がした。
競馬ではなく、競走馬が大好きになった。
ミスターシービー以外にも、シンボリルドルフ、オグリキャップ、タマモクロス、イナリワン、スーパークリーク、ナリタタイシン、ビワハヤヒデ、ウイニングチケット、ナリタブライアン、デープインパクト…
名前を挙げればきりがないな。
これからも、賭け事としての競馬ではなく、競走馬を中心として競馬を楽しみたい。
競走馬は、携わった人みんなの夢を乗せて走っているのだと思う。
1リットルの涙といのちのハードル
1リットルの涙といのちのハードルを図書館で借りてきてイッキに読んだ。
今回、娘から「1リットルの涙」と言う言葉が出た時は驚いた。
逆に言えば、命の重さを教えるチャンスだと思った。
しかし、本を読めと言ってもおそらく半分も読まないうちに飽きてしまうかもしれない
だから、ドラマのDVDを見せた。
泣きながら見ていた… 作戦は成功である。
娘なりに、考えることもあったのであろう
この2冊の本にも興味が出てきたみたいで
「読んでみる」と言っていた。
オイラとこの2冊の本との出会いは、もう15年も前であろう。
命の重さを教えてもらった。
木藤亜也さんとオイラは同世代である。
亜也さんが、リハビリをしていた時期にオイラも足の怪我をして
リハビリをしていたときである。
オイラは車椅子での生活が、1ヶ月ほど続いて
「街というのは、なんと障害者に優しくないのであろう」
と、感じていたときでもある。
亜也さんから比べればオイラのリハビリなんてたいしたことない
それでも、辛いし、痛いし… 車椅子では動くのは大変だし…
でも、リハビリに行くと頑張ってる障害者の人たちがいっぱいいる。
オイラの数倍は頑張っているのが見てわかる。
それからは障害者の人たちにオイラは「頑張って」とは言えなくなった
今、凄くがんばっている人にさらに「頑張って」とはとても言えない。
自分を見つめなおし、なんて自分が小さいのだろうと感じた時期でもある。
娘に、「車椅子の人が困っていたら?」と聞かれた。
もちろん、手を貸すのは当たり前である。
車椅子の経験者はしっいると思うけど
ちょっとした段差で、止まってしまう場合がある
それを後ろから、前輪を上げて段差を乗り越えてもらうだけでも
オイラの場合はありがたかった。
そして、行く方向が同じであれば
「後ろから、押してよい?」と聞いてみる。
決して「押してあげる」と言い方ではなく「押してよい?」である。
車椅子の人が行く所まで付き合うのではなく
自分の行く方向が同じで、自分の負担にならない程度。
ちょっとだけでも手を差し伸べることが大事なんだと思う。
木藤亜也さんの言葉に
「何で病気は私を選んだの?」
「私は何のために生きているの?」と言う言葉がある。
その時は、わからなかったかもしれないけど
今なら判る人はたくさんいるはず。
木藤亜也さん、あなたはすばらしい文献を残しました。
その文献が、ベストセラーになり、映画になり、ドラマになりました。
そして、その本を読んだ人、映画を見た人、ドラマを見た人の心を揺さぶったはずです。
「いのちのハードル」の中に、読者からの手紙でこんな言葉を見つけました。
"私は、障害者をみるたびに指をさしたり、笑ったりしていました
これからは絶対にしません。ごめんなさい"
こういう人たちを、一人でも少なくすることができていると思います。
立派に、人のためになるような生き方をしている
木藤亜也さんがお亡くなりになって20年たちます。
20年たった今でも娘は、ドラマを見て、映画を見て心を揺さぶられています。
そういう作品を残したあなたは偉大です。
木藤亜也様の冥福をお祈りします。