サトウユウイチのごすぺる放浪記 -802ページ目

伝道について考える(その3)


ユーリのごすぺる放浪記


 今、僕の手元には1枚の写真があります。

 興部の教会設立50周年の記念式典の写真で、小さな教会の前に教会員の人達が写真に納まっています。

 残念ながら、僕自身は会堂の中でしなければならない仕事がありましたので、その中には写っていないのですが、細い雲の線が教会を中心に放射線状にたなびいているように見える、とても印象的な写真です。


 あるイギリス人の牧師がかつて、同じように教会の前にクリスチャン達が立つ写真を見せて人々に聞いたといいます。

 「どちらが教会だと思いますか?建物か、それとも、その前に立っている人達か?」


 僕自身が偶然の積み重ねとしか言うことのできない形で初めて教会に足を踏み入れた時に感じたことを、今でも覚えています。それは、「ようやく帰る場所を見つけた」という気持ちでした。

 そこは、私を家族として受け入れてくれる場所に思えたのです。もちろん、その教会が正統な福音派の教会であり、尊敬すべき人々によって運営されている場所だったことは幸運なことであったと思っています。


 教会の扉は誰に対しても開かれている、ということを知らないクリスチャンはいません。

 でも礼拝中に鍵のかかっていない教会の扉から誰も入って来ないとしたら、私達は新しい人を迎え入れようとする気持ちよりも、すでに教会に連なっている人々の居心地の良さのほうを大切にしているかもしれない、と、疑ってみる必要があるかもしれません。

 もし本当に教会が全ての人々を受け入れようとする気持ちを持ち、新しく足を運ぶ人にとって居心地の良い場所であるなら、来るべき人は必ずやって来る。論理的な証明はできませんが、僕はそう信じています。

 だから外に出て人々を呼ぶ前に、部屋の掃除をして窓辺にお花を飾り、料理を作ってお迎えをする準備から始めましょう。


 私は、教会は常に居心地の良い場所であってほしいと思っています。

 週に一度、皆で集まって語らい、歌を歌い、牧師が説教している時には不足しがちな睡眠を補い、次の1週間に向けての新しい活力を与えてくれる、そのような場所であってほしいと思っています。


 昔、大好きだった「アリー・my・ラブ」というドラマで、教会の牧師が「若い人々は皆、教会に結婚相手を探しに来てる!」と怒っているシーンがありましたが、日本の教会が婚活の場所として使われるようになるなら万々歳です。