単に「全ては必然」と言うのも、偏りに過ぎないんだな・・・。

「そんなの偶然だよ!」と言う人と同じくらいに・・・。


「現実」は、自分の心が作っている・・・。

そういう意味において、「全ては必然」、なんだ。


その人の現実を見れば、その人の潜在意識がどう考えているのか、

一目瞭然、ってことかな~。



先日シルバーさんに草むしりをお願いしたら、事務の方に3週間後になると言われ、

意を決して玄関先だけ自分で頑張ったんです。

するとその晩、「ピンポーン、明日作業に来ます~!!」


私は自分でアクションを起こしたことによって、3週間後と言われていたものを

「引き寄せた!」と思いました。「スゴイ!」と・・・。


すると翌朝、夫は言いはしませんでしたが、明らかに

「お前、昨日やって損したな。フフッ。」てな感じだったんです。


「へえ~」と私は驚いた。

同じ現象を見て、人ってこんなに見方が違うんだなあ~って、改めて思ったんです。


みなさんはどっちタイプ??

耳エッ、夫タイプ??


私は夫に「めでたいヤツ」と言われたりするんですが、私は実は、

私のこの「めでたいパワー」が、我が家を支えていると思っています。


・・・それこそが「めでたいヤツ」なのでしょうか???ガーン



お恥ずかしながら私、今の今まで「継続」の意味するところを、

本当にはよく理解していなかったことに気づきました。


何事もある程度のところまで行くと「あとはこの繰り返しだな・・・」と思うこと、

ありませんか?大体先が見えてしまう。

こうなって、ああなってと、楽しみももちろんありますが、まあこんなところだろうと。

すると途端にモチベーションが下がって来ます。ワクワクしない。


類は類を呼ぶの通り、私の周囲にはこういう人結構いたりします。

短所として捉えれば、飽きっぽいということになりますし、

ものがわかっている人風に言えば、年をとったということかも知れません。

年をとるということは、初めてということが減っていくことでもあるからです。

なので自分の経験や見聞から、良くも悪くも、大方の察しがつくことも多くなります。

だから概ね、若者にとって年配者の言うことは嫌~な感じがするものです。

「そんなことしたって何にもならない」とか・・・。

自分が何にもならなかったからと言って、他人はわからないじゃないですかねぇ?


それから生活の糧でない場合、「ある程度」で継続のモチベーションが

下がって来るのは事実です。

他にも興味を魅かれることはたくさんありますから。


でも肝心なのは「ある程度」のところの先なんだなぁ~と気づいたんです。

その先が大事なんです。

そこには「こんなところだろう」と予想もつかない世界があるのですね。

「継続」の意味はそこにこそあるのではないかと思った今朝でした。

ありがとうございます。


それから付け足し。

成功するまで続ければ、絶対成功します。・・・よねぇ?

しかし現実には、ずう~っと続けていたって、何にもならない人もいます。

これは「続け方」に問題があるのです。

ただ漫然と「続けているんですけどねぇ・・・」と言ったってダメです。


銀メダリストのフェンサー太田雄貴選手も、中高校生時代に、

「お父さんと毎日練習する」と決めて、本当に一日も休むことなく

練習を続けたことがあるそうです。

すると練習の内容よりも「今日も練習した」という事実や達成感が

大事になってしまい、何のために練習を続けているのか

わからなくなってしまったことがあるそうです。


そこで「休む時は休む、試合に出て勝つことを目的とする」と決めたら、

練習の質も格段に違ってきたそう。


一言で「継続」と言っても、そこにはいくつもの深い意味があるのですね。








確か「ぼちぼち結論」という養老先生の本がありますが、

結論といいながら、その後もジャンジャン新しい本を出している・・・

とアマゾンの書評に書かれていたのを思い出しました。

でもまあ、先生のそんなご気分、なんかわかるじゃないですか・・・。


私もなんだかそんな気分のステージに来ている今日この頃です。

そして養老先生もそうであるように、またここから、新たな旅がすぐに始まってしまうのですが。


一生で、あと何回くらい「そんな気分」を味わえるのかな・・・?

脱皮するような感覚。


何回もあってほしいな~。 マトリョーシカのように。


今日銀行の待ち時間に手にした雑誌に、料理研究家の辰巳芳子さんが載っていて、いい~こと仰ってました。

「味は付けようったって、付けられるものではない。」

確か、素材に寄り添って教えてもらうようなものだと。


シンクロでしょうね。

今日読んでいたライアル・ワトソンの本にも、こんな件を発見しました。

「マダガスカルを訪れるたびに、私はオンビアシーと呼ばれる現地の治療師たちと話をして、その技術の一端を学ぼうと努力してきた。しかし、たとえば、マダガスカル固有種の植物の葉を春先に摘んで、そこから抽出したものが、彼等の言い方で「ミルク状の血」と表現される病気に効くことをどうして知っているのか、と私が聞くと、返事はいつも同じなのである。「簡単だよ、わしらは植物に聞くんだ」と彼等はいう。」


今日復習していたアロマセラピーのブレンディングでもそうなんです。

ある香りを消そう、直そうというマインドになっている時点で、ブレンディングは失敗するんです。

ブレンディングは相乗であり、決して消去ではありません。

個々を生かさないとうまく行かない。


私たちの社会もそうですよね、きっと。

相乗であり、決して消去であってはなりません。


文明という名の下に、人間は、生物として大切な、膨大なものやことを周縁化して来ていますよね。

アロマセラピー然り、自然療法、代替療法への回帰は、全くを持って自然な流れですよね。

20世紀は西洋医学が大いなる進歩を遂げ、一大体系が築かれましたが、

21世紀は周縁化して来たものにフォーカスし、西洋医学も含め、それら全てを統合した、さらなる大体系が築かれるといいですね。

果てしない道のりではありましょうが。


300年前には瀉血など、今からは考えられないことが当たり前のように行われていたように、

いつの日か「昔はメスとやらで体を切開していたらしい」なんて言う時代が来るのでしょうね。





自分が意識したものを紡いでいったものが、
人生そのものになって行く・・・。


裏返せば「思考は現実化する」ということなんだけれども、
最終的には、現実化するからそう思考するのでは、断固としてない。


そう思考する「在り方」だからこそ、
より素晴らしい人生になって行くのだ。