うみへいく -81ページ目

「思い出のマーニー」を観てました。



思春期の息子たちは、アンナとマーニーの仲良しな様子に、それはもう身の置き所なさげに観ていました(笑)。

最後の方になるまで頭の上にクエスチョンマークをたくさん浮かべながら(^-^;)。

まあ私もハテナハテナ、で観てた一人ですが(笑)。

見終わって見れば何かが心の奥に染み透るような、不思議で暖かな気持ちになりましたけれど。



マーニーも、マーニーの娘も、そしてアンナも、不幸が連鎖してる感じですが、人って案外こんななのかも、と少し思ったりもしたあたりが、なんとなくノスタルジックな気分にさせてくれたのかもです。



生きてると、皆いろんなことを生きてる年数分担いでいきますから、時にその重さに耐えかねて座り込んでしまうこともあるのですけど、最後にはやっぱり、笑ってた自分を周りにも、自分自身にも残してあげたいと言うか……。うまく言えませんが、あったかい気持ちを次の世代に手渡してから逝きたいなあ、といつも思うのです。



死ぬまでには、身内にちゃんと愛されていたことを知りたいのかもしれませんね。



あぁ、それは私がAC(アダルトチルドレン)だからそう思うのかもですけどf(^_^;)。

子供のうちに、親の愛情を確認できてた人には無関係な感情かもしれません。



私は息子たちに伝えられてるのかしら。

二人のことをとても愛していることを。

私が死ぬときに伝わればいいんですけどね(笑)。





私の母はとても真面目すぎて、子供に厳しい人でした。

少し古くさい家柄だったため、母は男児を産むことを親戚から強く求められましたが、産まれたのは女児でした。

それでも長子は長子ゆえに大切にされてたようですが(親戚から)、二人目(私)も女児だと分かって、私の両親はがっかりしたのだそうです。



それを、母のお腹のなかに居たときから私は知っていたかのように、女の子でありながら男児のようにふるまい、男児のような格好を好み、世間から男の子と間違えられることに喜びを感じていました。



私が男の子のようだと父が喜ぶからです。



でも、母は女児なら女児らしく、と思っていたので、私たちはしばしば対立しました。



母は私によく言いました。



この家は長女が継ぐ。

おまえは早く出ていくといい。



と。

子供の私には、それは「お前は要らない」と言っているようにしか聞こえませんでした。



死ねばいいのに。

殺してやる。



とも言われました。包丁を手に持っていましたねぇ((゚m゚;)。

扱いにくい私が、母の疲労の種だったのでしょう。



母は父からDVを受けていて、私は母が父に殴られる様を見ていました。

また、父は姉と私にも、カッとなると暴力を振るい、そのあと深く落ち込んで猛省し、そしてまた暴力を振るうのですショック!



ですから母はずっと孤独と恐怖の中で子育てをしていたのだと思います。
まぁ、そう思うようになったのはこの度、母が倒れてからなんですけどね。


父は暴力を振るっても子供を可愛がることもする人でした。母のように常に厳しいわけではなく、甘くて子煩悩な部分もあったため、私は父を憎むことはできず、同時に母からの離脱を常に望むようになりました。



けれど、結婚して実家を遠く離れ、友もない場所での初めての育児が、わけのわからない発達障害児であったことは、当時の私をかなり悩ませましたあせる

それまで「発達障害」などと言うものを知りませんでしたし、手のかかる息子1のことも、初めての育児とあっては、比較の対象もなく、どうしたらよいのかまるでわからなかったのです。
そんな中、当然の如く、頼れるのは夫しかいない、と思っていたのですが、その夫はどうやらASD(自閉症スペクトラム、或いはアスペルガー)で、私の気持ちを察することも、寄り添うことも、自ら育児に協力することもありませんでしたから。(今となってわかることです。当時はそれもわからず、なぜ夫はこうなんだ?という疑問と苛立ちでいっぱいでした)

ぼんやりさんの私は当時、こんなものなの?とか思ってたり、数日すると忘れてたりしていたのですが、考えてみるとわけのわからない息子と夫を抱えて、こんなものなの?と思いながら見知らぬ土地で孤軍奮闘していたことになりますね(笑)。

おバカですね。
ひーたん(親友)に言わせれば「だからパーなんだよ」だと思います(笑)。


で。
ある日苛立って感情が爆発した私に、夫は暴力を振るいました。

息子の目の前で。



グーであちこち殴られ、蹴られ、やめてやめてと叫んでもそれは止まらず、頭を庇ってしゃがみこんだ私の下半身を執拗に攻撃され、やがて私の足は腫れて流血しました。



その血を見るまで、夫の暴力は止まりませんでした。



長男はまだ1歳半くらいだったかと思うのですが、後々、私は長男から聞かされました。



お父さんがお母さんを殴る蹴るしてた光景を僕は覚えている、と。



子供たちが大きくなってから、何かの折りに、私は母にこのことを打ち明けました。

母は言葉少な目の反応でしたが、子供を連れて帰ってきなさい、と言ってくれました。


まさかあの母がそう言うとは思っていなかったので、有難すぎて私は帰りませんでした(笑)。

考えてみれば(これも)、母もDV受けて孤独の中で育児していたわけですものね。



私はその時にはっと理解したのです。

母が何故私たち娘に厳しかったのか、何故いつも苛立っていたのか。

何故、娘に辛く当たっていたのか。



そうです。母は孤独だったのです、私と同じように。



親子と言うのは同じ境遇に置かれたりするものなのかな、と思ったら苦笑いが出ました。

母に反発していた私ですが、母の苦痛を身をもって追体験してしまったわけです。




当時住んでいた社宅のマンションの10階に、ある夜私は長男を抱っこして上がりました。

長男は夜泣きが酷かったので、夜風に当たり、夜景でも見ようと思ったのです。


ゆらゆらと抱きながら外を見ていると、10階の住人から声をかけられ、そっと育児書を手渡されました。


私は意味がわからなかったのですが、後から人伝に聞いた話では、私が立っていた場所から、飛び降り自殺した主婦がいたのだそうです。

自殺の原因は育児ノイローゼでした。

その住人は、私もそこから飛び降りると思ったのだそうです。



そんなに悲痛な顔でもしてたのでしょうかショック!

子守唄を小さな声でハミングしながら、ゆらゆらと小さな息子を抱っこしていただけだったのですが。
悲痛・・・だったのかもしれませんね。
子育てしんどいなぁ、とは思っていましたから。まぁすぐ忘れますけど(爆)。


私はわけのわからない育児というものをただただ必死でかむしゃらにしていたと思います。死ぬことは考えたことはありませんでした。

次男を産んで、引っ越しを重ね、鬱病を発症してしまうあの時までは。



まあ、とにかく。

母と自分の境遇を思い出して、マーニーに何処かなにかを重ねて見たのか、見終わった時には前述したような気持ちになったと言うわけです。



母は結婚した私に「子供など産む必要はない。苦労しかない」と言いましたが、その真意が今ならわかります。

同時に、「苦労はあるけれど、産んだことを後悔したことはない」と私は思うのです。
だって、ここまで大きくなったら本当に助かることたくさんあるんですよ。
それにやっぱりヤバイくらい可愛いのでラブラブ(●´ω`●)ゞ。


そして、私が二人の息子を愛しているように、母も姉と私を愛していてくれたことを、母が倒れて意識朦朧としているときに、あることがあってから私はもう知っているのです。



なんだか暗い話になって申し訳ないのですが、自分の過去を今さら悲観しているわけではなくて、そんな過去だったから、笑顔と愛情を息子たちに手渡してから逝きたいと願う、ということなのです。




実は、私の脳には、脳動脈瘤があります。母と同じです。

ですから破裂した時のことを私はいつも頭の隅に思い描いておくのです。


破裂⇒即死は30%。



だから私は願うのです。
暖かな未来を息子たちに置いていきたい、と。


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あっという間に夕方です。

今週から土曜日もお仕事が入ったので頑張ろうと思います。


次男の野球がなくなったのでお仕事入れてみましたよん。




ところで今日はお掃除中にパイプ椅子が倒れてきて私の左足の甲を直撃してしまい、びっくりするほど腫れ上がってちょっとビクビクしてしまいました。


いや、骨折だったら仕事できなくなる!と思って(^_^;)。


たんこぶになってました。


すぐにアイシングして現在はだいぶ腫れも引き、歩行も問題ないので骨には異常ないようです。


注意力散漫だなぁ、とつくづく。




そういえば子供の頃もよく母親から「あんたはどうしてそう注意力散漫なの?」と怒られたり、お友達から「人の話を聞いてない」と怒られたりしましたガーン




仕事スイッチが入るとそんなこともないのですが、日常生活においてはぼやーんとしてることは確かに多い気がします。

「話を聞いてないな!」というのは今現在も友人から指摘される部分です。




「仕事」と「仕事ではないとき」、という区切りで自分の意思でスイッチをON、OFFしている気がします。

話を聞かないというのは大変失礼な行為なので自分ではもちろん聞いているつもりなのですが、実際聞けていなくて「え?なんだっけ?」ってことがよくあります。

ほんとにごめんなさい叫び


じゃぁ聞いていないときは何をしているのかというと、何をしているのでしょうか(^_^;)。

ぼんやりと中空を見つめているみたいですけど、何も考えていない様子です。

自分でもよくわからないのが現実でちょっとまずいかもしれません。


私は思い立ったらすぐ行動したい、というタイプでもあったので(今は年齢のためかむしろ腰があがりませんが)、仲良しの臨床心理士の先生曰く、

「ちょっとあなた、ADHDあるんじゃないの?」

と。


笑っておっしゃってましたが、私的にはあまり笑えない・・ですかね?汗

いや、笑っちゃうかな(笑)。



そういわれるとその傾向はある気がするので。

ASD(自閉症スペクトラム、またはアスペルガー)は入っていないとは思うのですが、ADHDの方は否定しきれない気が・・・(笑)。



ただ、自分が確かに認識しているものがあって、それはAC(アダルトチルドレン)です。

その認識があるのと、ACのもととなった両親との関係が(おそらく)改善されたことで、現在は克服しつつあると思っていますが。




「発達障害」というのは、どこからどこまでがそう呼ばれるのか、という部分において、なかなか難しいと私は思っています。

やはり、その傾向があっても日常生活に明らかに支障が出ている場合は本人も周りも自覚すべきかなとは思うのですが、一個性で周りからも受け入れられている場合はあまり気にしないほうが良いようにも思います。

※もちろん障害の度合いはあります※




人間なんて完璧なわけもなく、発達障害が世間的に障害とされてしまうのは主にそのコミュニケーション力において他人と自分に難しさを与え、その難しさに対して本人が苦しさを感じた時に名づけたら良いものな気がします。いえ、そう思いたいのかな(笑)。




私は、こと日本という社会においては、この発達障害の人たちは生きづらい社会構造、民族性になっているかな、と感じています。


日本人は割と閉鎖的で、自分たちと異色の生き物が苦手な民族ではないかと思うので。

また、良くも悪くも争いを好まないので、「臭いものには蓋」をしたいというのもあると思います。




実は発達障害でもASDの人というのは自覚が薄くて、周りが思うほどご本人は苦しんでいない場合もあるかと思います。

なので、ASDを伴侶や家族に持った定型発達者の人の方が大変な思いをしてしまうのかもしれません。




それにしても現在17歳の長男が9歳の頃は、ネットの中でもこれほど「発達障害」についての記事は上がっていなかったように思うのですが、最近は本当によく見かけるようになりました。




それだけ、個性が認められる社会に進んできたと捉えたいのですが、どうでしょう。




発達は見た目的に違和感がないため、周りから理解されにくいのが問題ですよね。


世間での認知が進んでいるのなら、あまり知られていなかった昔に比べたらましと思うのですが、定型者が同じ定型と思って接してた人になんらかの違和感を感じて、よくよく観察してみたらどうやら発達なのではないか、と感じた人が多くなり、そうなると、そう思われてしまった発達当事者はちょっと苦しいかな、と思いますね。いや、わかってもらえた方がいいのかな?正しい認識ならば、ですが。




発達当事者の自己認識と、定型者の発達障害者への認識の両方がもっと進めばもう少し生きるのが楽になるのかもしれません。


人は人に迷惑をかけながら、助けてもらいながら生きる種族だと私は思うのですよ。いえ、思いたいのですよあせる


それは発達障害者であろうがなかろうが。




「迷惑をかけたくない」と思えるか、或いははなから思わないかの差異はあるかもしれませんが、迷惑をかけて生きることを前提にして定型者が教えてあげられたらいいのかな?



「私は自分の本意ではなくてもあなたに迷惑をかけてしまうことがあるようです。助けてくれてありがとう」という言葉を言えるように。



まぁ本心のところでそのへんの感覚がよくわからないのが発達障害の症状の一端でもあるのですけど(^_^;)、「手助けありがとう」と声に出して言える習慣を、大人になるまでに身に着けることができれば発達障害者も少しだけ生きやすくなるかもしれません。




で、それにはやっぱり小さいうちに発達障害があるかないかが明白になる方が良い気がします。


大人になってからだと柔軟性が鈍るので、こういうことすら難しくなりますから。難しくなればその分当事者は苦しんでしまいます。



一番身近にいる母親が気づきやすいでしょうか?


学校の先生も感じることはあるかもしれないですが、面と向かって保護者の方に「お宅の息子さん(娘さん)は発達障害かもしれませんので調べてください」とは言いづらいかと思うので。

早いうちにお母さんの第六感(笑)で見つけてあげられるといいですよね。




で。

定型者の方に求めたいなぁと思うのは、やはり正しい理解ですね。

「発達障害」という言葉だけが先に知れ渡っている感があるので、実際にそれはどういうものであるのかを知ってうまく使っていただけるととてもありがたいです。



その反面、特に「空気が読めない」「相手の気持ちを察することが苦手、気づかない」「言葉の額面通りにしか受け取れない」という性質においては、定型者が苛立つ気持ちもわからなくはないのですよ。ダウン




私の場合は息子が広汎性発達障害ですので、わが子の事ですから、それはもう必死に周りに理解を求めたくて仕方ないという一面があります(笑)。


そして同時にASD(本人自身の受診は、本人の拒否により行われていないのですが、私が代理受診して得た結果です)の伴侶を持つことによって心の病にまでなってしまった自分がどれだけ苦しかったかを知っているという一面もあります。


大変矛盾しているのですけれど、わが子の発達は受け止められても、伴侶の発達は受け入れがたかったという現実があったのです。




伴侶については、時代もあったでしょうけれど、両親にその認識がなかったため、わが子の発達障害を知るまで自身にも発達障害があったことがわからなかったことが、私が受け入れられなかった原因として大きいです。結婚前に「俺は発達障害があって、こういう症状がある」と説明があったらまだよかったのですが。


そして、私自身もまた、夫の放つ違和感に気づいていながら、それが発達であるとの認識がなく、気づいたらカサンドラ状態に陥っていた、ということが大変苦しく、今現在の夫と私の壁となっています。

いえ、私だけの壁かもしれません。

夫の方はそこまでわかっていないですねガーン




ですから、息子がいつか結婚したら伴侶となる女性は今現在の私と同じ気持ちになるのか、と考えてしまうわけです。

息子自身は自分の障害を受け入れているので、私と夫の姿を見て、自分は結婚はしない、と17歳にしてそう言い切ってしまっています。それは母親としては非常にジレンマです。



もちろん、結婚=幸福でもないと思っているので、息子にとって一番生き易い方法で人生を歩んでほしいとは思っていますが。




その辺の不安について、例の臨床心理士の先生に訴えたときに言われたのは


「息子さんの場合は早くから障害に気づき社会に出るための訓練を積んできた。息子さん自身も自分の障害を理解していて、周りにそれをカミングアウトすることもできる。息子さんと旦那さんの歩いてきた過程は異なるものなのよ。それぞれを育てた人間も違う。二人はまったく違う人間なのだから、違う方法で幸せになれるはず」


という言葉でした。



果たして息子1はどうなるのでしょうか叫び


そういうわけで、発達障害について理解したい、理解してほしい、という強い願いと、相反する苛立ちの両方を私は持ち合わせているということです。



ちなみに小6の次男はボーダーですし、先に書いた通り、私もADHDの傾向が多少あるというのなら、これはもう家族全員で発達障害一家として生きていけってことになるわけで・・・だったらもう臆することなく堂々と発達なりの生き方を通しちゃってもいいのかもしれないですけれどね。(ちょっとやけっぱち)


まぁ実際は、常に試行錯誤中というところですにひひ


夫について、息子についてはまたおいおい日記にしたためようと思っています。













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こんばんは。
夜になるとやっぱり寒いですね。

ワンコの散歩をしていても随分と秋になったなぁ、と風景を見て思います。
庭の柿の実もかなり紅くなってきました。

さて、私は写真が割りと好きでして、Instagramを利用しています。
【ID:0421.lovehide】
です。
よかったらお気軽に遊びにいらしてくださいね音譜





美しい風景をUPされてる方をfollowさせて頂くことが多いのですが、皆さんのお写真を拝見していると顔が自然に綻びます。

ああ、この方はこんな素敵な風景を見ていらっしゃるんだ、今こんな場所におられるんだ、こういうものがお好きなんだ、と色々想いながら拝見させていただくからです。

時々拙い英語でやり取りもするのですが、美しいお写真を通してするやり取りはとても平和的で優しくて楽しいものです。

そこには国籍や人種による差別や批判はなくて、むしろそういったものに関係なく、人は美しさに共感しあえるものなんだなぁ、と再認識します。

政治の話になるとトゲトゲしやすい会話が私は苦手でして、Twitterなどで尖った言葉たちに心を抉られたあとは、必ずInstagramに入って様々な国の美しい風景に癒されることにしています(笑)。

好きなartistの話題なども、国籍は関係ないですね。私の場合はhideさんなのですが、日本の方以外の方がhideさんを想ってらっしゃる様子など拝見すると親しみが沸いてきます。



※HEADWAXさんごめんなさい。変な理由では使用しておりません※



hideさんのみならず、日本のアニメが好きな方も一生懸命日本語を勉強されていたりして感心します。

母国語以外の言葉を使えるのは素敵なことです。
欲を言えば、自分の気持ちや伝えたいことを英語などで自由に伝えられるくらいの語学力がほしいと思います。

個人対個人で交流すると、ネットニュースなどで受ける外国の偏ったimageを払拭出来て、とても楽しい気分になります♪

もちろん必要な現実は、私の場合はTwitterの方で得て向き合っていますけれどねf(^_^;)(笑)。

Twitterのアカウントは公表しないでおきます(笑)。
政治思想的なお話は疲れてしまうのでヽ(;´ω`)ノ。
ごめんなさい。
おはようございます♪

本日も良い天気で気持ちいいです!……と思ったら台風が来てるんでしたね( ̄▽ ̄;)。

進路に当たる方はどうぞご注意くださいね。



最近は爽やかですが、朝晩と日中の気温差が大きくて少し体調が心配です。

プラスして秋のアレルギーも始まってますのでねf(^_^;)。

お薬なしではお仕事になりません。
目は痒いわ、鼻水ダラダラだわ(笑)。



ところで、お医者様が患者さんには出すけれど自分は飲まないお薬一覧というものをネットで見かけました。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42507



要は副作用が怖いからと言うことなのですが、投薬も服薬も本当は凄くデリケートなものなのかもしれませんね。
患者さんは不安からお薬を求めがちなので、一般的にリスクが低いと判断されるお薬は出されるのが当たり前になっています。



気持ちもあるので病気で不安になってる患者さんにしたら、お薬を飲むことで安心するという効果はあるわけですから。

ただ、お薬が体に良いものかと言われたら、良いものであるはずはないのかも、とは思いますよね。



飲んでみて何かおかしい、副作用かな?と感じたらすぐにお医者様か薬局にご相談された方が良いです。
ただの風邪薬ですら、眠くなるという副作用があるという認識は患者側も持っていた方がいいかもしれません。



私が怖いと思うのは、やはりお薬の重複です。

いくつかの病院にかかられている場合は、他でかかって飲んでいるお薬のことをきちんと伝えなくてはいけません。
そのためにお薬手帳があります。しかし、その手帳を忘れてしまったり、他でかかっていることを言えなかったりするケースもたくさんあるのではないでしょうか?
重複して出されたお薬をすべて飲んでしまうことは怖いことです。



特にお年寄りの方はお気を付けて頂きたいところです。
お薬を溜め込んでいらしたり、明らかな副作用が出ていても、「医者がくれたんだから飲まなきゃだめなんだ」と思い込まれている方は多いです。


同じお薬を飲んでいても、大丈夫な方もいれば合わない方もいます。

合わなければ合うお薬をお医者様が探してくださるはずです。



自分が飲んでいるお薬が重複していないか、本当に副作用がなく飲めているか、この季節のアレルギーのお薬も含めて、たまには自分の飲んでいるお薬について考えてみても良いかもしれませんね。



私自身のケースでは、過去に書いた鉄欠乏性貧血の際の鉄剤での副作用、また肩凝りが酷かった時に出された筋肉弛緩系のお薬、また睡眠バランスをととのえるために出されたお薬においては何れも副作用を感じて使用を中止しています。



お医者様によってはそんなはずはない、この薬で副作用が出るはずがない、とおっしゃられた方もおられましたが事実自分の体調に明らかな異変が出ていたので、自分の意思も含めて中止措置を取りました。



息子のときは、心療内科において、発達障害における衝動性をおさえるために出されたお薬が駄目でした。
そのお医者様はもともと投薬があまりお好きではない方だったので、「やっぱりね、うんやめようやめよう」とスムースに中止となりました。



また、こんなケースもあります。
大きな総合病院で心臓のお薬を処方されて数年間飲まれている方なのですが、処方箋を拝見すると同じ効果が出るものがいくつも重複して出されていて、ご本人は低血圧を起こしたり、常に頭に違和感を感じられたりと、不調を訴えられている、というものです。



投薬はもう総合病院から地元の開業医さんへと引き継がれており、その開業医さんはもとの総合病院から申し送りされたお薬を頑なに何年間も出し続けているわけです。


他の科のお医者様(脳外科、整形外科など)も、薬剤師さんも、あまりに内容が重複しているためとても心配されており、開業医さんに訴えられた方が良いと助言なさっていて、ご本人様もその旨をお話されているのですが、その開業医さんは減薬を拒否なさっています。


ちなみに脳外科では脳内に異常は見つかりませんでした。



症状としては、先程あげた低血圧、さらに目眩、ふらつき、頭がもやもやする不快感といったものです。呂律が回っていらっしゃらない時もあります。

現在セカンドオピニオンをおすすめしているところですが、体調がお悪いためなかなか受診できない事態にいらっしゃいます。



副作用を感じてもそれらを服薬し続けなければならない病状という風に受けとるしかありません。

このように、お薬がもたらす危険や不快感は確かにあるのです。



ご自分の病気と付き合うことは、お薬と向き合うことでもあるのかもしれませんね。
情報を知り、うまいこと擦り合わせて妥協点を見つけることで、上手にお薬を使っていけたら良いですね。

本日も良い天気でした。


昨日の運動会の疲れも抜けた夕方、私は次男(11歳)を連れて、彼が所属する少年野球部へ向かいました。


退部のご挨拶をするためです。


次男は小学校2年生の時に少年野球チームに入りました。

母校のではなく、隣の学区の野球チームです。


母校のチームには長男が小学校3年生の頃に1年程入っていたのですが、いろいろないじめがあり退部した過去があって、次男はそこには入ることをためらったためでした。

もちろん保護者としても、そのチームの方針への疑問や不快感などがあったので、野球をやるなら他の場所で、という思いはありました。


次男の同級生が母校チームに入っているのでやりにくいのでは?というのはありましたけれど、幸い同級生のお母様方は皆優しくて理解もあり、うちが他校のチームに入ることも別に何も言わずに見守ってくださいました。


次男はピッチャーになりたくて毎日庭で軟式ボールを投げていました。

始めた当時は2mも届かないようなへなちょこでしたが、3年生にあがる頃にはだいぶ上達しており、

4年生の時には私がボールを受けると掌が内出血するほどでした。


もちろん、これは私がちゃんとグラブのポケットで受けれてなかったという事実もありますが(笑)。


バッティングもよく頑張っていて4番をもらっていたこともあり、監督たちから見るとピッチングよりバッティングを磨く方がいいなぁと言われていました。

それでも本人はピッチャーになりたかったのですけどね。


肩を痛めて(野球肩)整形外科でリハビリを受けた日々もありました。

負けて泣く日、勝って笑う日がありました。

仲間との関係に悩んだ日もありました。

他校生ゆえに寂しい想いをしたこともありました。


それでも結局彼を野球から離さなかったのは、彼を受け入れてくれたチームメイトであり、陰ながら支えてくれた父兄の方々、そして監督、コーチの皆様のおかげでした。


ものすごくのめりこんでやっている感じでもなかったのですが、仲間への意識がとても強く、

苦しいことがあっても「仲間がいるから」の一念があったのだと思います。

それと「投げたい」という強い願望です。


けれども、5年生になる頃、次男の体に異変が起きていました。


最初の頃、その異変は単に「ぐうたらしている」という風に周りから見られ、当然ながら怒られ、「グラウンドから出ていけ」と怒鳴られたこともありました。

その時本人は悔しくて泣き、「辞めたい」と初めて一言洩らしました。


結局彼が辞めたいと言ったのはその一回だけだったのですが。


彼の体に起きた異変。

それは「起立性障害」というものでした。

実はもちろんもっと小さいときからその病気はわかっていて、お薬も飲んでいたのですが、年齢が上がると共に症状が強くなっていき、5年生の夏以降は悪化の一途をたどりました。


要はまず朝、午前中に頭も体も覚醒することができないのです。

目が覚めても血圧が上昇しないので動くことができないのです。

外野手だった彼は、動き回るというより、立っている、或いは屈んでいることのが多かった姿勢が負担で、立っているうちに徐々に血圧が低下していってしまいます。


血圧が下がってくると、頭がぼーっとして思考力も停止し、傍から見るとぼんやりしているようにしか見えません。急に立ち上がるとブラックアウトも起こします。

そして、昼ごろから夜にかけて段々元気が回復し、通常に戻っていくのです。


ですが、野球は朝早くから体を動かすことばかりなので、症状が悪化してきた次男には、この朝から動く、という作業、および外野手として守備についているという姿勢がネックになってしまいました。

まさに致命傷でした。

真夏は人より先に脱水症状も起こしやすく、およそ運動に適した体にはもう見えなくなっていました。


試合に出たい、打ちたい、投げたい、という衝動とは裏腹に、思うように動かない体を持て余して、次男は苦悩するようになりました。


小児科の医師にも相談し、いろいろな薬も出していただき、ドクターから監督へ診断書とお手紙まで書いていただいたりしてなんとか継続できるように試行錯誤しましたが、チームプレイである野球というスポーツにおいて、彼の抱える持病はもうどうにもならないものでした。


辞めるか、なんとか続けるか・・・この二択はその後ずっと私たちを悩ませ続けました。

本人にも決断できず、それがまたストレスとなって悪循環に陥っていたようにも思えます。


仲間も監督も「一緒に最後まで」という思いが強くあって、一生懸命次男を引っ張ろうとしてくれていましたので、有難いことではあったのですが、余計に決断が難しくなっていたのでした。


けれど、6年生になってようやく一桁の背番号をもらってすぐに、次男はもう野球へと戻ることができなくなりました。

月に2、3回行ければいい方でした。

そのうち、野球だけでなく、学校へも行けなくなってしまいました。

私はなんとか学校へは、と思い、様々言っては押し出していましたが、そのうちドクターストップがかかり、夏休み前はほとんど登校できませんでした。


次男はメンタルまで病んでしまい、私たちはカウンセリングを受け、投薬を受け、小児科、臨床心理士(スクールカウンセラー)、学級担任、学年主任と連携を取って、フォローしていくこととなりました。


非常に苦しかった時期です。

しかし、話し合いを重ねることで担任との交流もスムースになり、(最初少しもめたのでお互い印象が良くなかったと思われます)、彼も何が辛いのかを周りに吐き出すことができるようになり、現在は週に4日、頑張れるときは毎日、11時登校で学校へ行っています。


そんな状態ですので、もうこれは悩んでいる場合ではないな、と判断し、1か月以上の時間をかけて次男の答えを待ち、この度の退部へとつながったわけです。


数か月ぶりに訪れたグラウンドへ、彼はすぐに足を運べませんでした。

躊躇するようにゆっくりと入っていき、でも目を反らしました。


監督はすべての事情を汲んで退部を受け入れてくださり、私も久しぶりにお母さんたちに会い、また久しぶりに仲間の子供たちの顔を見ると、もう胸がいっぱいになってしまいました。


仲間一人一人のいろんな表情が思い出されます。

同じチームにいるとこんなにかわいいと思うものなのかと、よく感心したり、感激したりしたものです。

喧嘩しても試合になると一致団結したり、ふざけて一緒に怒られたり、私が知らない思い出も、次男の胸にはいっぱい詰まっていることでしょう。


次男は複雑そうに仲間の輪に迎えられて少し緊張した面持ちで笑っていました。

監督にも頭を下げ、退部の意思を伝えていました。

私の方がかなり泣いてしまい、お母さんたちにお礼を申し上げるときにはもう涙声で、ちゃんと声が届いたかどうかもわかりません。


本当に仲間に恵まれたチームだったと思います。


グラウンドを後にした車の後部座席で、歯を食いしばり、声を殺して、次男ははらはらと泣いていました。

さっきまでは笑っていたのに。


私は黙って運転を続けました。


そしてふと思い立ち「バッティングセンター行く?」と尋ねると「行く」という答えが返ってきたので、進路を変えてバッセンへと向かいました。


「僕は野球は好きやった。やり続けられるものならやりたかった。でも自分で決めたことやからもうこれでいい」


彼は自分に向かって言い聞かせるようにそう言って車を降りました。



私は長男の時に、野球部の在り方に対してとても強い疑問を感じていました。

今ここでは書きませんが、理不尽なことが多かったのです。


自分の中高時代、私は高校野球が大好きで、高校生になったときは野球部のマネジになることも考えたほど好きだったので、少年野球の実態に直面した時の衝撃が大きかったのです。


けれど、次男が所属したチームは非常に臨機応変で、個人の性質や能力をよく考えてくれていました。監督さんのお人柄もあったかとは思います。

長く野球を愛して続けられるように、という気持ちが指導者の中にはいつもあったように感じられました。そこが長男のときと一番異なる部分かと思います。


私は学生の頃、よく想像していました。

ダグアウトから見上げる空はどんな風に見えるのだろう?応援席は?ダイアモンドは?マウンドは?

女には体験することができないグラウンドからの風景を想像しては諦めていたものです。


それがこんなおばちゃんになってから、まさか自分の息子にそこへ連れて行ってもらえるとは思ってもみませんでした。


5年生の時、プロ球団のサブグラウンドへ保護者同伴で入ることが許されたのです。

ベンチの様子、夢見ていたダグアウトから見上げる空を、私は息子に連れてこられて見ることができました。


もうそれだけで、十分息子には感謝なのです。






2年生から今日まで、しんどい体を支えながらよく頑張ったと思います。


この経験が彼を育てたものもあると信じています。


仲間と、彼が戦い続けてきたいつものグラウンドに心から感謝をしたいと思います。


ありがとう。







そして、さようなら。