「思い出のマーニー」を観てました。
思春期の息子たちは、アンナとマーニーの仲良しな様子に、それはもう身の置き所なさげに観ていました(笑)。
最後の方になるまで頭の上にクエスチョンマークをたくさん浮かべながら(^-^;)。
まあ私もハテナハテナ、で観てた一人ですが(笑)。
見終わって見れば何かが心の奥に染み透るような、不思議で暖かな気持ちになりましたけれど。
マーニーも、マーニーの娘も、そしてアンナも、不幸が連鎖してる感じですが、人って案外こんななのかも、と少し思ったりもしたあたりが、なんとなくノスタルジックな気分にさせてくれたのかもです。
生きてると、皆いろんなことを生きてる年数分担いでいきますから、時にその重さに耐えかねて座り込んでしまうこともあるのですけど、最後にはやっぱり、笑ってた自分を周りにも、自分自身にも残してあげたいと言うか……。うまく言えませんが、あったかい気持ちを次の世代に手渡してから逝きたいなあ、といつも思うのです。
死ぬまでには、身内にちゃんと愛されていたことを知りたいのかもしれませんね。
あぁ、それは私がAC(アダルトチルドレン)だからそう思うのかもですけどf(^_^;)。
子供のうちに、親の愛情を確認できてた人には無関係な感情かもしれません。
私は息子たちに伝えられてるのかしら。
二人のことをとても愛していることを。
私が死ぬときに伝わればいいんですけどね(笑)。
私の母はとても真面目すぎて、子供に厳しい人でした。
少し古くさい家柄だったため、母は男児を産むことを親戚から強く求められましたが、産まれたのは女児でした。
それでも長子は長子ゆえに大切にされてたようですが(親戚から)、二人目(私)も女児だと分かって、私の両親はがっかりしたのだそうです。
それを、母のお腹のなかに居たときから私は知っていたかのように、女の子でありながら男児のようにふるまい、男児のような格好を好み、世間から男の子と間違えられることに喜びを感じていました。
私が男の子のようだと父が喜ぶからです。
でも、母は女児なら女児らしく、と思っていたので、私たちはしばしば対立しました。
母は私によく言いました。
この家は長女が継ぐ。
おまえは早く出ていくといい。
と。
子供の私には、それは「お前は要らない」と言っているようにしか聞こえませんでした。
死ねばいいのに。
殺してやる。
とも言われました。包丁を手に持っていましたねぇ((゚m゚;)。
扱いにくい私が、母の疲労の種だったのでしょう。
母は父からDVを受けていて、私は母が父に殴られる様を見ていました。
また、父は姉と私にも、カッとなると暴力を振るい、そのあと深く落ち込んで猛省し、そしてまた暴力を振るうのです
。
ですから母はずっと孤独と恐怖の中で子育てをしていたのだと思います。
まぁ、そう思うようになったのはこの度、母が倒れてからなんですけどね。
父は暴力を振るっても子供を可愛がることもする人でした。母のように常に厳しいわけではなく、甘くて子煩悩な部分もあったため、私は父を憎むことはできず、同時に母からの離脱を常に望むようになりました。
けれど、結婚して実家を遠く離れ、友もない場所での初めての育児が、わけのわからない発達障害児であったことは、当時の私をかなり悩ませました
。
それまで「発達障害」などと言うものを知りませんでしたし、手のかかる息子1のことも、初めての育児とあっては、比較の対象もなく、どうしたらよいのかまるでわからなかったのです。
そんな中、当然の如く、頼れるのは夫しかいない、と思っていたのですが、その夫はどうやらASD(自閉症スペクトラム、或いはアスペルガー)で、私の気持ちを察することも、寄り添うことも、自ら育児に協力することもありませんでしたから。(今となってわかることです。当時はそれもわからず、なぜ夫はこうなんだ?という疑問と苛立ちでいっぱいでした)
ぼんやりさんの私は当時、こんなものなの?とか思ってたり、数日すると忘れてたりしていたのですが、考えてみるとわけのわからない息子と夫を抱えて、こんなものなの?と思いながら見知らぬ土地で孤軍奮闘していたことになりますね(笑)。
おバカですね。
ひーたん(親友)に言わせれば「だからパーなんだよ」だと思います(笑)。
で。
ある日苛立って感情が爆発した私に、夫は暴力を振るいました。
息子の目の前で。
グーであちこち殴られ、蹴られ、やめてやめてと叫んでもそれは止まらず、頭を庇ってしゃがみこんだ私の下半身を執拗に攻撃され、やがて私の足は腫れて流血しました。
その血を見るまで、夫の暴力は止まりませんでした。
長男はまだ1歳半くらいだったかと思うのですが、後々、私は長男から聞かされました。
お父さんがお母さんを殴る蹴るしてた光景を僕は覚えている、と。
子供たちが大きくなってから、何かの折りに、私は母にこのことを打ち明けました。
母は言葉少な目の反応でしたが、子供を連れて帰ってきなさい、と言ってくれました。
まさかあの母がそう言うとは思っていなかったので、有難すぎて私は帰りませんでした(笑)。
考えてみれば(これも)、母もDV受けて孤独の中で育児していたわけですものね。
私はその時にはっと理解したのです。
母が何故私たち娘に厳しかったのか、何故いつも苛立っていたのか。
何故、娘に辛く当たっていたのか。
そうです。母は孤独だったのです、私と同じように。
親子と言うのは同じ境遇に置かれたりするものなのかな、と思ったら苦笑いが出ました。
母に反発していた私ですが、母の苦痛を身をもって追体験してしまったわけです。
当時住んでいた社宅のマンションの10階に、ある夜私は長男を抱っこして上がりました。
長男は夜泣きが酷かったので、夜風に当たり、夜景でも見ようと思ったのです。
ゆらゆらと抱きながら外を見ていると、10階の住人から声をかけられ、そっと育児書を手渡されました。
私は意味がわからなかったのですが、後から人伝に聞いた話では、私が立っていた場所から、飛び降り自殺した主婦がいたのだそうです。
自殺の原因は育児ノイローゼでした。
その住人は、私もそこから飛び降りると思ったのだそうです。
そんなに悲痛な顔でもしてたのでしょうか
。
子守唄を小さな声でハミングしながら、ゆらゆらと小さな息子を抱っこしていただけだったのですが。
悲痛・・・だったのかもしれませんね。
子育てしんどいなぁ、とは思っていましたから。まぁすぐ忘れますけど(爆)。
私はわけのわからない育児というものをただただ必死でかむしゃらにしていたと思います。死ぬことは考えたことはありませんでした。
次男を産んで、引っ越しを重ね、鬱病を発症してしまうあの時までは。
まあ、とにかく。
母と自分の境遇を思い出して、マーニーに何処かなにかを重ねて見たのか、見終わった時には前述したような気持ちになったと言うわけです。
母は結婚した私に「子供など産む必要はない。苦労しかない」と言いましたが、その真意が今ならわかります。
同時に、「苦労はあるけれど、産んだことを後悔したことはない」と私は思うのです。
だって、ここまで大きくなったら本当に助かることたくさんあるんですよ。
それにやっぱりヤバイくらい可愛いので
(●´ω`●)ゞ。
そして、私が二人の息子を愛しているように、母も姉と私を愛していてくれたことを、母が倒れて意識朦朧としているときに、あることがあってから私はもう知っているのです。
なんだか暗い話になって申し訳ないのですが、自分の過去を今さら悲観しているわけではなくて、そんな過去だったから、笑顔と愛情を息子たちに手渡してから逝きたいと願う、ということなのです。
実は、私の脳には、脳動脈瘤があります。母と同じです。
ですから破裂した時のことを私はいつも頭の隅に思い描いておくのです。