当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にしていくことで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

 

どうも クリハロ です。

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 さて、今日は大晦日! 2025年もどうもありがとうございました!

 

 

Amebaブログの最終回!記念すべき100件目の記事だね。
門出のために、今年の活動を振り返っておこう!

 

 僕は年末年始の行事が結構好きなんだよね。何か区切りを意識することで、過ぎていくだけの時間を改めて名前をつけてラッピングできる。来年から始まる僕のオリジナルサイト(https://dec25oct31.com/)でのブログ「揺蕩う耽綴ブログ」のために、Amebaブログ最終回もしっかり飾って、綺麗に終わらせたいね。


 紅白歌合戦が大好きなもんで、このブログが投稿される時間には画面に張り付いて真剣に見ている真っ最中だと思う。そんな年末年始が大好きな僕として、今回は2025年を振り返って、パッケージ作業をしてみるよ。忘年会気分で読んでくれたら嬉しいな。オリジナルサイトでは僕の指定したものしか表示されないように、コメント機能をオフにしている。今回がみんなとの最後の繋がりだと思って、いっぱい感謝を伝えたいと思うよ。いつもありがとう!今までありがとう!

 

 今年の新語・流行語

 

 ユーキャンの「新語・流行語大賞」では「働いて働いて働いて働いて働いてまいります/女性首相」が年間大賞を取っていたね。去年の「ふてほど」は酷かったけれど、今年は「古古古米」「エッホエッホ」「オールドメディア」など、多くの注目できる言葉があって、新語・流行語の豊作な年だった気がするよ。

 

 個人的にユーキャンより価値があると感じている、三省堂の「今年の新語」で大賞を取った「ビジュ」も、ユーキャンが取り上げていたから、意外と捨てたもんじゃないなと不遜にも思ったな。でも、三省堂の方では4位に「しゃばい」が取り上げられていて、これはさすがだと感じたね。本当にすごい新語というのは、新しいと感じないものだと思うんだ。ただ、それをピックアップしてくるのは本当に難しいもので、言葉について真剣に見つめ続けている人でないとできない仕事だよね。

 

 さあ、時事ネタだけ書いていても僕が書く意味はないから、ここからは個人的な「今年の◯◯」を発表していくよ。最初は新語・流行語。

 

 僕の今年の新語・流行語大賞は、「名もなき哀れ」にするよ。

 

 

 今年は言葉について、今まで以上に真剣に向き合った年だった。「書くこと」とは何かについて考え続けて、導き出した答えがこの記事なんだ。僕が書くべきものの名称を「名もなき哀れ」と名付けたことで、芸術への眼差しがより鋭くなって、視界が明瞭になったと感じているよ。

 

 

今年からは、小難しいことを偏屈なクリハロくんがずっと言うという、面白みのかけらもない記事が増えたよね。

 

 読み手を意識していなくて申し訳ないけれど、内省をしっかり働かせて言語化するというのは楽しかったよ。

 

 また、オリジナルに作り出した新語に関しては、この記事に詳しい。

 

 

 「濘らか(うだらか)」・「逶い(もどよい)」・「迤う(もどよう)」に関しては、かなり自信のある新語だな。自分の作品のなかでも適当に入れていきたいね。

 あと、意外にも「食端末」は我が家では市民権を得たんだよね。お母さんがこの前「結構スープが多いから、食端末はフォークよりスプーンがいいと思うよ。」って言っていて、ちょっと嬉しくなっちゃった。

 

 他にも、今年は意識的に新しい表現を求め続けていた気がする。

 

 

 

 

 言葉について真剣に考え続けた結果、キー配列だろうが、暦だろうが、ブログのプラットフォームだろうが、なんでも自分で作りたい欲求のある僕としては、造語をしなくてはいけないって意欲が出てきたんだろうな。お喋りより書くことが多かったのもあって、単純な造語だけでなく、新しい漢字表記を求めることもあった。

 

 

 

 幼い頃から漢字は好きだけど、難読漢字を覚えることに精を出すだけであって、こんなに能動的に新しい表記を考えようとしたことはなかったな。昔の文豪もよく漢字表記を作り出していたわけで「言葉を使う側」だけでなく「言葉を作る側」にも手を伸ばしたいなという感覚になってきたんだよね。

 

 

言葉には、正確に、または多くの人にメッセージを伝えられるという役割ももちろんあるけれど、芸術的な側面もあるし、内省のためにじっくりと組み立てる媒体にもなってくれるよね。

 

 総じて、言葉についてよく考え、よく悩めた一年だったな。

 

 今年の漢字

 

 日本漢字能力検定協会による「今年の漢字」は「」ということで、こちらも去年の使い古された「金」よりずっとよい選出だね。やはり、独特な字が選ばれるとアツいな。過去で最高だったのは、大震災によって、明らかに使用頻度が急増した2011年の「」だと思うんだけど、1998年の「毒」2003年の「虎」2006年の「命」2007年の「偽」なども僕としては高評価している。それに比べて「金」はさ…

 

 さて、僕の今年の漢字も発表しよう。

 

 Dec25Oct31、今年の漢字は…

 著す(あらわす)という漢字だよ。

 

 なんと言っても、僕の今年の活動は「執筆」だった。

 

 

 処女作『剪断』を公開したのが、今年三月。唐突に小説を書いてみたくなってから、まだ一年弱しか経っていないことが自分でも信じれらないってくらい、のめり込んで書き続けた年だったと思う。言語に依る芸術に真っ直ぐ取り組んだことで、「美」への志向の様態も研ぎ澄まされたんだよね。ブログをオリジナルサイトへ移行することを決心できたのも、書くことを通して「美とは何か」と自分に問いかけ続け、なんとか答え続けた懊悩の成果だと感じているよ。

 

 

去年もブログは書いていたわけだけど、小説を書いてから明らかに文体が変わった気がするね。最近はハードルが高いかも…。

 

 

 ブログとラヂオだけだった「自閉症くんと考えよう」の耽シリーズも、色々と書きたいと思えるようになって、活動を広げられたね。

 

 

 

 

 今後もずっと続けられるであろうライフワークができた。これは、十年後、二十年後、いや、もっと先の老いぼれた僕が、感謝してくれるような大切なことだと思うんだよね。死のその時まで、言葉で足跡を繋いでいきたいな。この自己満足を、どこまでも充足できるように、僕はひたすら傲慢に意地汚く書き続けるよ。

 

 よいお年を

 

 このAmebaブログは、今回で終了するけれど、僕の活動はこれからが本番だと自信を持って言いたい。来年以降も頑張って活動するから、どうぞよろしくね。

 

 最後にもう一度、新しい「揺蕩う耽綴ブログ」の行き先を案内しておく。

 

(https://dec25oct31.com/blog/)

 

 さあ、2025年も今日でおしまい。

 もちろん365日もあれば、辛いこともあったけれど、その度に立ち止まって考えて、素直に苦しみ、真剣に悩めて本当によかった。みんなは満足できる一年になったかな。何にせよ、まずは一人ひとりのあなたが今日まで生きてくれたのが、とても素晴らしいことだよ。いつもありがとう。

 

 とりあえず、昨年に引き続き元日には、新年の曲年賀状のイラストなども準備してあるから、楽しみにしていてね。
 しかし、そう考えると、終了発表をしてからブログの幕引きをどうしたものかと悩みに悩んでいたけれど、意外と僕自体の活動は変わらない、というか変えられないのかもしれないな。

 

 

自分らしさに懸命に向き合っていたなら、場所が変わったとしたって、きっと根底は似通った表現に辿り着くよ。

 

 自己表現のあり方を追求しているわけだけど、僕がなんたるかを積極的に語っても実際の彩りは褪せてしまうと思うんだ。牡蠣フライ理論で言うように、自己というのは、様々な表現の積集合として副次的に描かれるものでなければならない。

 自閉症くんとして語ってきた「こだわり」は、どれも僕の大切な自分らしさであって、生きる原動力だ。でも、それに苦しんできて、療養的にブログを始めたという部分もあるんだよね。誇れる醜い美に向かって、僕はこだわりを統制したい。だから今回は、まだ綺麗な終わらせ方じゃなくてもよいって思えたんだ。美しき死に様はもっと先で創り出す作品の終焉に取っておきたい。人は皆、表現者である。

 

 2026年も、Dec25Oct31をどうぞよろしくお願いいたします。

 それでは、よいお年をお迎えください。

 

 

今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました!

新天地でも応援をよろしくお願いいたします。

世界鑑賞では、皆さんの自由なコメントが大変嬉しいです。

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 「人間関係リセット症候群」その言葉を初めて聞いたのは、確か十年くらい前だ。連絡先を消去したり、知らぬ土地に引越したりするだけで、簡単に新しい自分として生きていける。一昔前の村社会では有り得なかった現代病である。

 インターネットでも、アカウントを作り替える「転生」という行為がある。現実世界での転職などと違い、指先だけで済む。だから、苦しい人間関係や完璧になれない醜い自分を直視すれば、どうしてもその選択肢が浮かんでしまう。僕にはこれが甚だしく口惜しい。「リセット」に慣れることで、鮮やかな死は色褪せるのだ。

 

 memento mori

 

 死は恐い。古代より免れられない本能だ。
 そのためか、人間は死の練習に躍起になるようだ。幼児はよく高いところから飛び降りる。自分の身長の二倍くらいの高さから跳んでみて、足がじんと痺れるのを楽しむ。横断歩道で白線からはみ出せば死ぬし、ゲームに負けることでも死ぬ。もう少し真面な理性を拵えたとしても、次々と人が殺されていくフィクションを楽しみ、時に感涙に咽ぶことだってある。多くの死の模造品を作り出すことで、不可知な本物の「死」を、相対的に捉えたいのだろう。しかも、できるだけ明るく前向きに、どうしようもない恐れを薄めるために。
 明示的にやれば、それは「宗教」と呼ばれるが、特定の信仰を自覚していなくとも、死の練習は誰もが押し並べてしている。死のあらましを推し量りたいという欲求は頷けるが、果たして練習によって本当に理解は陟むだろうか。死の恐怖を希釈することで、溶け出してしまう生の美しさはないだろうか。

 「リセット」は、直感的には死の模倣の最たる例だと感じられる。けれどその実、生きるためにする逃避だ。従来の場所に居続けて、無様に死ぬのには耐えられない一人きりの人格が、新しい生き方の枠組みを希求する。実際に生まれ変わることなんてないと判っているから、形式だけでも刷新したがる。問題は、これを「死の練習」だと誤認しやすいことだ。僕たちは、あらゆる死の模造品を観察し、その傾向から死そのものを推察するわけだ。とすれば、その根拠が嘘に塗れてしまっては、死を過小評価してしまう。人生に一度きりの幕引きが霞んでしまってはいけない。
 

 僕は漫画に疎いが、家にあった『ドラゴンボール』は、幼児の頃に全巻読んだ。男児として暴力に依る解決は爽快であったし、三次元の空間を自在に動き回る戦いが小さな紙面で起きているのには感心した。ただ、釈然としなかったこともある。人間を簡単に生き返らせられることだ。七つ集めたドラゴンボールで死を簡単に克服できる。死後の世界も現実世界と大差なく地続きに描かれる。死が完全に薄められた世界に言葉にできない違和感を覚えた。
 その点、小学生の頃に読んだ『ハリーポッター』は、まだよかった。魔法という超常現象を許す世界であっても、死を特別視して、絶対に超えられないものとしている。死を必要以上に恐れる弱い心から、自分勝手に遠ざけようとすれば、殺人に明け暮れ、異形となるしかない。それを絶対的な悪として描いている点がよい。

 

 生きることを考えるためには、死に向き合わなくてはならない。

 本能的に恐ろしいのは仕方ないが、退けてはいけない。終わりの意味、終わりの価値、終わりの美しさ。それを特別視して、深く悩んでこそ、生は煌めき出す。醜くてもよい。自己嫌悪に打ち拉がれるのを喜んで、他人にはナルシシズムと見間違われればよい。すべての足跡を等しく愛し、醜態を飾ってこそ美しい。

 

 この死生観や美学を選んだ理由をよく考えると、十二歳の頃の愚行が起点にあると見えた。迫るAmebaブログの終わりに際して、その恥辱を告白したい。

 

 告白

 

 いじめについて語ったことは何度かあるが、ネット活動を始めた理由にも関係している。どこにも居場所がなかった僕は、自然とインターネットに縋った。よく利用したのは、いじめに関する掲示板だった。

 

 個人情報は守った方がよいと、意味はよく解らずとも再三忠告されていたから、適当なハンドルネームで登録した。本名のアナグラムみたいな名前だったと思う。
 いじめの相談をすると、即座に返信が来た。温かい言葉だった。けれど、どこか期待外れというか、救われた気分はしなかった。ディスプレイに文字が描画されるのは、DSでRPGをするのと変わらないからかもしれない。自分が受けているいじめについて、初めて言葉にするのは苦しかったし難しかった。僕にとっては大きな決心をして、母親のスマホからシークレットモードで掲示板に書き込んだのだ。なのに、使い古された温かい言葉で簡単に受け入れられてしまった。具体的にどんな言葉を望んでいたのかは判らないが、どうしてか落胆してしまった。

 生きている実感が欲しくて、様々な掲示板へ内容を少しだけ変えて投稿した。小学生だと問題がある場合は、年齢を詐称してアカウント登録する。僕からすればインターネットに何かを書き込んだ時点で、現実からの「転生」の気分がしていた。登校するときは昨日と変わらず、自閉症で分厚い眼鏡の偏屈なチビとして、いじめられっ子の役を選ぶしかないが、ネット上では好きなプロフィールの人間として暮らせる。どんどん名前を変えて投稿し、その度に同じような励ましをもらって、同様に嘲笑してみせることで、孤独を再確認したかったようだ。

 スマホを買ってもらうと、そんなゲーム感覚の書き込みが、さらに酷くなった。自分のいじめを描写するのにも飽きて、色々な設定のいじめを考えて相談する。そして目的が逆転して「転生」そのものに面白さを見出すようになった。「かわいそう」「よくがんばっている」そんな風に思われるのが気持ちよかった。

 

 あるとき、他の掲示板に書き込まれている相談と内容や文体が酷似しているという指摘を受け、血の気が引いたことがあった。全部が崩れてしまうような焦燥に駆られ、急いでアカウントや書き込みを手当たり次第に消す。もうどこに何を書き込んだか把握しきれていないことに気が付いて、自分に呆れてしまった。しかし、それに懲りて偽装をやめたのかというと、そんなことはない。僕はもっと巧妙に架空の人物に擬態しようと努め始めたのだ。

 まず、名前、住所、家族構成、身体的特徴を決める。その地区の学校を調べ、ホームページを隅々まで読み、マップアプリで土地勘を養う。今までにした習い事や特技または、苦手なものや悩み事なども決めて、特性や人間性が表れるエピソードを経緯なども含めて詳細に数十個作り出す。そしてアカウントを作る前に、人格をインストールするため、この人物として一週間くらい日記を書いた。よく使う語彙や文章の癖、絵文字や顔文字の使い方なども自分とは異なるべきだから、慣れるためには練習するしかない。自分より賢いフリはできないから、大抵は不器用だけれど心優しい、冴えない男の子になろうとした。一人当たり数万字綴ったメモは、スパイさながらの出来だった。

 

 中学生に上がった頃は、埼玉県で知的障害のある兄の介護をしながら、サッカーの練習に勤しむ中一の男子「圭」というペルソナがお気に入りだった。年齢や性別を変えたものもあったが、そちらはあまりにも演技でやっている気がしてしまう。圭は、ちょうどよい距離感であって、感情移入がしやすかった。いじめ掲示板に書き込む都合上、いじめられている事実が必要だったから、兄のことを揶揄われて必要以上に逆上したことで、いじめられるようになったという物語にした。曲がったことが許せず、誰彼構わず正義を振りかざしてしまう不器用な圭は、サッカー部において酷い扱いを受けるようになり、好きだったサッカーというチームスポーツが恐ろしくなってしまう。兄の介護に追われている家庭に追加の迷惑は掛けたくないと、無理に無理を重ねる様を実況的に毎日書き込んでいた。話し方の特徴は強がりをすること。「俺は別に無視されても気にしない」と言ってみせたり、兄のことを自分で馬鹿にしたりもする。ただ、ひたすら行動は誠実だと透けるようにした。

 ある日、圭に対して長文でメッセージをくれた女性がいた。後で聞くと、年齢は僕の母親と変わらないくらいの人だった。「圭くんが本当はとても苦しいなか、頑張っていることを知っているよ。家族や学校に言いづらくても、ここはあなたの生活には関わらない絶対に安全な場所だから、辛いときは辛いって必ず言ってね。圭くんのお話たくさん聞きたいな。」そんなことが書かれていて、僕は返信が来るのが面白くて、いくつか圭のエピソードを記した。その度に、深く共感して本気で悩んでくれた。僕としてはかなり申し訳ない気がしながらも、圭の人格を降ろして読むと涙が溢れた。本当の自分のいじめ相談では落胆してばかりだったが、圭を通して初めて救われた気分がしたのだ。数週間、掲示板でやり取りをしてから、その女性はメールアドレスを教えてくれて、僕も圭のメールアドレスを作って交換した。

 それからは毎日、互いに数千字のメールを送り合った。他の架空の人物での投稿を少しずつ減らし、遂には圭だけに集中するようになる。逆に圭のプロフィールはますます充実させ、サッカーについてや、圭が好きそうなアニメや歌などを徹底的に勉強した。彼女が気に入りそうなカスタマイズもした。そんなことを数ヶ月やっていると、嘘を吐いているという自覚もなくなってくる。学校で暴力を振るわれ、散々排斥されながら、今日の圭はどんなことをしているだろうと考える。そして家に帰ってきたら、その日に考えた出来事を圭としてメールに長文で書くという二重生活を送った。楽しかった。メールの内容はいじめのことばかりでなく、他愛もない内容も増えた。彼女についてだって知る。精神疾患があって働けず、親と暮らしていて、いつも家にいるからメールで人と繋がれることが嬉しいだとか、花が好きでフラワーアレンジメントをしているだとか、いくらでも話した。最も驚いたのは、住んでいる地域が近かったことだ。住所を教えてもらうと、なんと二駅隣だった。けれど、圭の設定とは遠いし、説明した圭の容姿と僕の姿はかけ離れているから、絶対に会うこともできない。何も言えなかった。

 僕はだんだん圭としてのロールプレイというよりは、彼女そのものに依存するようになった。どうしても自分自身のことを聞いて欲しくて、いじめの内容を自分の受けているものに少しずつ変えていき、自閉症であることも明かした。圭のプロフィールに矛盾しない自分の情報を挿入すると、圭は一段と僕自身に馴染んで感じられた。どんなことを話しても「話してくれて嬉しいよ。辛いことは辛いって必ず言ってね。」と優しく受け止めてくれるのは、独りぼっちの心に痛いほど沁みた。

 

 冬休み前、彼女の精神状態が悪くなった。出会ってから毎日欠かさなかったメールの返信がなかった日があって、僕は心配して何通も送った。次の日、彼女は深く謝ったが、しばらくすると、圭くんは裏切り者で、周りの人と私を笑い物にしているんじゃないかと怯えたメッセージが届いた。圭なら彼女がなぜそんなことを言うのか判らず、悲しんで直截的に問い詰め、体調不良を聞き出してから、我武者羅に励ますだろうが、僕にはその苦しみが実感を伴って判った。文言に身に覚えがある。僕もこんなことを言うときがよくあった。今は圭に感情をぶつけているが、彼女はいずれ後悔に暮れ、自責の念に駆られる。問い詰めては、その傷を深めてしまう。僕は圭の演技を極力やめて、ただそばに居ると何度も伝えることにした。「話してくれて嬉しいよ」と彼女の言葉も借りた。数日、そんな調子が続き、メールの内容は普段より短く暗いものだったが、彼女が生きていることを知るだけで安心できた。

 しかし、症状は回復しなかったようだ。自殺を仄めかすメッセージが届く。クリスマスパーティのために親戚が家に来るという日だった。文章は支離滅裂で何を言っているのか半分くらいしか判らなかったが、危機的な状況であることは十分に伝わった。僕が彼女に依存するように、彼女も僕に依存している。親にも言えないことを圭には言えるようだし、本当に信頼していると何度も聞いた。今、圭が会いに行けば、きっと救われるのかもしれない。ただもちろん、圭は存在しない。僕なら数十分で彼女の傍に行けるけれど、僕は圭ではない。何もしてあげられない。むしろ、全部自分のせいである気もした。圭の悲痛な不幸を騙り、心優しい彼女の気を何度も揉ませた。実際に寄り添える人が他に見つかったかもしれないのに、架空の存在に時間も愛情も注がせた。酷いことをした。薄々気が付いていても、目を背けていた罪の意識から、もう逃れられなかった。リビングに漂い出したビーフシチューの匂いが気持ち悪い。ツリーもオーナメントも目障りだ。感情が引き裂かれる。

 「圭なんていない。本当はもっと卑怯で他の人格を借りることでしか話せない馬鹿なやつなんだ。」もっと前に、そう言えばよかった。それでも彼女は絶対に「話してくれて嬉しいよ。」と受け入れてくれるのに、僕はできなかった。圭が裏切り者かもしれないと怯えている今の彼女には打ち明けられないが、もう圭らしく振る舞うことなんて忘れて、ぐちゃぐちゃなメールを送っていた。

 

「どうしても死なないでほしい」

「お願いだから死なないでほしい」

「僕を独りにしないでほしい」

 

 それきり、何を送っても返信はなかった。彼女の家に行ってみて様子を窺うこともできたが、ご両親が最善を尽くしているはずだ。ただの好奇心から、圭と自分とを行き来するのは、都合がよすぎる気がしてやめた。彼女がパニックを起こして迷惑をかけたと責任を感じ、再び連絡するのを躊躇うことがないように、中一の終わりまで、追伸に「ずっと待っている」と添えたメールを毎日送っていたが、虚しくて堪らなかった。そして三月、圭を殺した。

 彼女と送り合った何百通のメールを読み返すと、壊れてしまいそうだったから、圭は自殺したことにして、存在ごと消した。これまでも何人もの「自分」を消したことがあったけれど、この殺人は、殺す思いと殺される思いとを同時に味わって、風呂場で脹脛にカッターを当てる日課よりも、ずっと激しい痛みがあった。

 

 降誕祭

 

 何度もリセットを繰り返してきた僕だからこそ、それはよくないとどうしても伝えたい。あなた自身というものは、形式的に誤魔化したところで、絶対に一人しかいない。この孤独な人生を歩み続けなくてはならない。黒歴史だと感じてしまい、すぐには受け入れられないことだってあるが、いつかその足跡も大切だと思えるように、少しずつ自分を認めてあげてほしい。

 

 Dec25Oct31を始めて、最初に大切にしたのは「自己開示」だった。本当の僕を知ってほしい。言いづらいことは、まだ言えなくてもよいから、もう嘘は吐かないでおこうと決めた。個人情報は守った方がよいという常識さえ忘れて、当時は開示しまくったから、後から少し表現を変えたものはあるが、どんな醜態もすべて自分の一部として飾っておきたい。オリジナルサイトには、僕の愛おしい足跡が並ぶ。

 

 僕の死生観は、ロマンチックすぎて戯言に聞こえたかもしれない。けれど、真実なのである。他人を生きてはいけない。とはいえ、いくらリセットしても、それらが僕のなかから完全に死んでしまうことはなかった。僕の中で「圭」は今でも生きているとよく感じる。圭を殺してから、他人に対して寛容になった気がするのだ。卑屈で他人の悪いところばかりを冷ややかに見つめる僕と違って、圭は優しく親身になって本気で相手と向き合う。内心憧れていたそんな人物像に好きなタイミングでスイッチしながら生きていたが、培った思考回路だけが残り、元の僕と渾然一体となって、新しい人格を形作った。どれもが僕だ。恥ずかしげもなく誇りたい。

 

 Amebaブログは、今年で終わるが、これは転生ではない。

 昔の自分と未来の自分を矛盾も厭わないで一本の命に乗せるための契機である。今まで以上に真剣に自己対話を続よう。鮮やかな死が訪れるように彩を重ねていく。

 

 

今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました!

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 久しぶり!みんな元気にしてたかな?

 

 

前回の記事での宣言通り、11月は一本も記事を出さなかったね。

 

 #100 までの残り三つの記事はもう決めてあるから、11月に一つも出さなかったのは僕が怠惰だからってわけじゃないんだよ!
 今年で終了すると宣言した、このAmebaブログ。一年半書いてきた舞台として思い入れもあるから、最後の今月の抱負だと思うと、ちょっと感慨深いな。最終月の今月も、丁寧に先月の振り返り今月の抱負を書いていくよ!

 

 先月の振り返り

 

 先月の抱負は「ホームページの運用を開始しよう」だった。先月はこのためにかなり頑張ったよ!奇しくも去年の11月も「休みます」とか言って、一本も記事を出さなかったんだけど、そのときとは全然違ってDec25Oct31の活動に時間をかけた月だったよ。CSSの知識も全然ないもんで難しかったし、どんな記事でも書いていけるだけのブログの書き方のルールを整えることが何より大変だった。


 例えば…

  • 変更可能性と拡張可能性を保ったまま、記述が容易になる設計をする。
  • デフォルトで表示されるものを独自のデザインに変更する。
  • 何をどこに表示させるか、階層構造を意識した正しいデザインにする。

 

 僕のブログは記事の最初にサムネイルのような画像が表示される。この記事であれば「ぼくのこと」の緑枠の画像の真ん中に「2025年12月」って文字が書いてあるもののことね。これは、毎回Keynoteで作成して(文字部分を変えるだけだけど)貼り付けてきたんだ。でも、そうしていると画像そのものを変更したいと思ったときに、過去のものまでいちいち作り直さないといけないんだよ。だからデザインを変えた2025年4月より前の記事は、サムネイルが昔のデザインのまま…。
 そのとき苦労したおかげもあって、やっぱりサイトデザインには変更可能性拡張可能性を担保しておくことが大事だと判った。Amebaブログでは、記事の内部に追加CSSを書くことはできないから限界があったんだけど、オリジナルサイトであれば、そんなことはいくらでもできる。普通に中央のテキストを打ってから、そのブロックに「bokunokoto」(クラス名に日本語を使うことを嫌がる人もいるけど、僕はどうしても日本語がいい)と追加CSSを記述するだけで、サムネイルになるようにできたよ。
 僕はデザインが気に食わないとそれが気になりすぎて、内容を書く気が一切湧かなくなってしまうんだけど、同時に「記述が容易であること」というのも僕にとってはとても大事。今日着ていくズボンを決めなくてはいけないな…と思ったら外出をやめてしまうくらいに、少しの億劫ですべてを投げ打ってしまう僕だから、呼吸するように直感的で簡単な操作だけで記事が書き上がらなくては、往々にして記事を書くこと自体をやめてしまうだろうと予想がつくんだよね。
 そんな面倒なクライアントに設計案を認可してもらうのは、もちろん簡単ではなかったよ。もう少し愚痴を続けさせてね。最も悩まされたのはモラリのセリフ

 

 

え?わたしのこと?

 

 こうやってキャラクターに喋らせるデザインは、それなりに複雑だから実装も難しいんだよね。Amebaブログだと、下部の「HTML表示」というのを選択して、該当箇所へClipyに保存してある「モラリの吹き出しのHTML」をペーストし、セリフ内容を書くというやり方をしていたよ。でも、これではもちろん変更可能性は微塵もないし、モラリに喋らせる度に長いHTMLを貼り付けるっていうのは、あまりにも汚い。何より面倒すぎるから、気が乗らなくて記事にモラリを登場させないってことも、しばしばあったよ。

 そこで、当然これもCSSで定義を書いて、各記事のブロック自体に追加CSSのクラス名を書くだけでセリフ形式になるようにしようと思ったんだ。でもこれは初心者の僕にはなかなか実装が難しかったな…。
 例えば、「mascot left talk」みたいにいくつかのクラスに分けて書くなら簡単だったんだけどね。どうしても一つのクラスだけで達成したかったんだよ。この空白を何回か打つ手間によって、打ちひしがれてブログをやめてしまうだろうから。

 

 

あまりに脆い…。
あ、こんな頻度でわたしを出して大丈夫?無理しないでね!

 

 丸二日くらいそのためにCSSと格闘してなんとかできたんだけど、やっぱり僕は頭がおかしい…と感じることにもなったね。Amebaブログを卒業したくなるのは、そりゃ時間の問題だったなと思える。

 まぁ、そんなこんなでサイトの設計をとりあえず納得できるくらいまでは進められた。先月と何が変わっているんだ?ってくらいしか見た目には差が出ていないかもしれないけれど、裏では要領の悪い僕が奮闘していたんだよ。

 

 そして、Amebaブログに投稿されている記事も、少しずつ移行させ始めた。

 このお引越し作業も面倒で仕方ない!普通に考えてこんな単純作業、時給がもらえないとやっていられない!ただコピペするだけだと、プラットフォームの違いによって記述がおかしい場合もあるから、少し書き換えないといけなかったしね。

 

…つまり、自分のブログを全文読まなくちゃいけないんだ。

 

 これに気がついたときは、うぎゃーーー!って叫んだね。HTMLの書き方も全然違うから、テキストしかコピペできないし、そのテキストすら信用ならない!?

 もうやめてしまおうか…。と本気で思ったよ。「これまでの記事はAmebaブログで見られるよ」ってリンクを貼って終わり。それでもいいじゃないか…。

 

 でも、最初の記事をコピペして作り直したら、たった一つ喜びがあった。

 

URLがキレイ!

 

 本当に喜びはこれだけ。

 自分のサイトでは好きにURLを定められるから、今までのAmebaブログの無作為なURLと比べると、整然と意味のある文字列なったんだ。
 

https://dec25oct31.com/blog/ブログ番号/

 

 何も見ないで手打ちできるくらいに簡単なんだよ。これが嬉しくてたまらなかったから「自分のブログを全部読む」+「デザイン部分を書き換える」という苦行にも耐えられた。やっぱり僕は「整理される」っていうのが大好きなんだな。

 まだまだ途方もない作業が必要だけれど、完成に向かってはいる。それに、並んでいる記事が徐々に増えていくと、満足感も生まれるもんだね。頑張るぞ〜!

 

ぜひ見にきてね!

 

 あと、昔書いたことに対して、書き足したくなった記事もある。
 Amebaブログのバージョンだと「好きなYouTuber-20選」だったんだけど、追加したいなと思える人がいたから加筆してみたよ。

 

 


 

 記事のお引越しで一年前の僕の文章を読んでいると「文章が下手だなぁ」と、とんでもない頻度で思ってしまった。乏しい語彙に回りくどい修飾、不必要な表現で崩れるリズム。今の感覚では目も当てられないよ。あまりに酷い場合は書き直しもしたけれど、成長の記録としては保存しておきたいなって気持ちもある…。(だからAmebaブログにはそのまま置いておくね)

 別に今の文章もまだまだ下手だと感じているんだけど、今年3月に小説を書くようになってから、それまでよりは明らかに文章力が向上したと思うんだ。文学について学び出したのも大きいけれど、数万文字の文章を書くというのは、それだけで厳しい修行になるもんだと思うよ。『剪断』を書いているときなんて、最初の方と最後の方で力量が異なって、レベルを揃えるっていう推敲が必要だったもん。

 

 それにしても、文章は、僕の性分にとても合っているね。最近、改めて病院で受けた知能検査(WAIS-IVというIQの検査)によれば、「言語理解」の項目は158、「処理速度」の項目は78とのこと。(信頼区間の幅があるもんだけどね)この80くらいの凄まじい差は、ときに“自閉症らしさ”として、ブログのネタになるけれど、日々の生きづらさにもなる。頭で考えられても上手く出力できない。いつだってそんな調子だよ。記事のお引越しも、転記するだけなのに遅すぎてイライラする。
 だけど、文芸という舞台は、どんなにゆっくり書いたって許されるんだ。大好きな言語の操作をこだわればこだわるほど善いって世界。なんとしても、僕はこの舞台を守り抜きたいと考えるようになったよ。

 

 だから、昔の自分の文章を読むうちに、やっぱり日頃から本気で文章を書いていたいって気持ちも増幅してきて、今月も『流離う耽譚ショート』を更新できた。

 

 

 まず、こちらの『リテイク』は、いつも主人公が自分に近い陰気な男ばかりになってしまうことを打破したくて書いた女子高生視点の作品。実は9月ごろに同じ挑戦をした作品があったんだけど、女子高生らしさが完全に失われて気持ち悪かったから没にしていたんだ。小説では主人公の身体に憑依したような文体で世界を立ち上げたいと思っていて、そうしたリアリティの中で見つける「名もなき哀れ」を作品性の核に置くから、没入感が薄いと急に陳腐になるんだよね。「本来の自分から遠い視点は下手なんだ…」と突き付けられて悔しかったな。

 そこで、女子高生に人気のものを調べて体験してみたり、女子高生が出ている動画を見漁ったり、かなり気持ち悪いおじさんとして過ごしてみた。検索履歴を家族に見られたら、恥ずかしくて爆死するだろうってくらい、なんだか屈辱的な行動に思えたけれど、どうにか視点の固定化を乗り越えたかったんだ。実際の女子高生の生活を垣間見ると、少しずつ人格をインストールできたような気がして、再び書いた『リテイク』は、以前のバージョンより明らかによくなったと自分としては納得できた。作家としての幅が広がったと思えるのも嬉しいし、自分のなかで僅かに蠢く乙女心も、ようやく落ち着いた気がしたんだ。

 

 けれど、僕らしさだとか、僕の唯一性はなんだろうと具に見つめると、視点を操るというただの技法は、僕の芸術性の一翼を担うものではないと悟った。掌編小説で実験的な挑戦を続けることは面白いけれど、そのお遊びも度が過ぎてしまえば、僕が表現したいと思える芸術ではなくなる。直近の『おぶわれて夏』『リテイク』はそうした性格を帯びていた。
 そんな諦めに似た自覚をすれば、真正面から芸術と対峙したくなる。じっと考えていると、ふと描きたいものが見つかったよ。「ポストモダン」だ。現代音楽や現代美術のような、芸術という概念そのものと向き合って制作された作品が好きな僕としては、文芸においても僕なりの超越や破壊を示したいと燃えてきたんだ。

 

 

 掌編小説の十作目となる『幻視痛』は、みんながどう思うかは知らないけれど、僕としては最も自信のある一作になった。現状としては完璧な1600字だと感じる。表面的には、紙幅のほとんどが夢の話で埋まっていて、何の話をしているのか、文章がつながっているのか、よくわからないという印象を受けるかもしれない。でも、その曖昧さを一字残らず設計できた感覚があって、美しさに溺れたんだ。

 たった六単語からなる世界一短い小説「For sale: baby shoes, never worn(売ります。赤ん坊の靴。未使用)」は極端な例だけれど、短編における感動は「書かれていること(二次元)」と「感じられる世界(三次元)」の差にあると思う。単なる物語のプロットだけでは感じられない「奥行き」を与えるものが作家の力量であり、それによって体積が生じる。また、密度を高めた体積の低面積は、小さければ小さいほど、圧力が大きい。そうして、熟れ過ぎた果実を親指で潰すように、液体が漏れ出していく。これこそ文章が導く絶頂なんだ。

 僕の筆は耽美に突き進みたがっている。自分が目指すべき芸術は、きっと夢のような無意識下で輪郭を捉え、後から重さを持つものだと思う。『幻視痛』は僕にとっての美のあり方を洗練させると共に、高次元への可能性を示唆してくれた。美の向かう先を優しく示した『窓外の素描』と並んで、これからも大切にしたいな。

 

 

サイトの整備もできたし、お気に入りの掌編小説も書けたし、クリハロくんにとって、有意義な一ヶ月になったね。

 

 

 今月の抱負

 

 さて、今月の抱負を書いていこう。

 

 最後だと意気込んで、本題に入るまでに5000字近く書いてしまったけれど「今月の抱負」の記事は、先月の振り返りの方がメインだから、許してほしい。
 しかし、そう思うと、今回は何を目標に置いたところで、この場で振り返ることはもうないわけだ。だから、今月の抱負は振り返らなくても成立する、抽象的なものにしたい思う。一年半続けてきた営みに大切にお別れを告げたい。

 

有終の美を飾ろう

 

 幼い頃から文章が得意だという自覚はあった。クラスメイトよりも多くの言葉を知っていたし、作文を書けば賞に選ばれ、知識を衒らかせばいい気になれた。だけど、誰に頼まれたでもない「ブログ記事」を書き出すと、当然、他者の評価を気にせずに、自分自身が本当に納得できる文章とは何かと、苦しむようになった。
 Amebaブログに取り組んだことで、見ている世界を徹底的に言葉で解析し、言葉で解体し、言葉で組み立てる眼差しが生まれたんだ。内省は深まり、苦しみの中で美の本質を掴み取ろうとする。今後もライフワークとなるであろう文芸に惹かれたのも、間違いなくその習慣のおかげだね。すべては2024年6月1日の情熱に因る。

 自閉症くんの世界をここまで読んできてくれた人は、気づいているかな。僕は何かを始めるのは難しいが、続けることは極めて簡単なんだ。そして、終わらせるのが、一番難しい。そのくせ、キーボード配列を作り替えたり、暦や言語を新たに作ったり、デファクトスタンダードを許したくないという気持ちもあるから、新たなものを自分の力で設計し、変化を与え続けてしまう。マゾヒスティックに、不愉快と向き合う痛みでこそ、美しく生きていると実感できるんだ。文章との関わり方として、ひたすら優越感に浸っていたときの方が幸福でいられたかもしれない。けれど、悶え苦しめる今の方がずっと美しいと思う。僕はそれを求め続けるんだ。

 人生は大きな物語だ。その上で、一つの章が終わる。最後の一文は、期待と解放を据えた美しいものにしたい。今までを肯定できるような、これからを紡ぎたくなるような、有終の美を飾りたい。

 

 残り2本。お楽しみに。

 

 

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