当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にしていくことで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

 

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 10月は忙しかった!
 僕は夏休み明けのように生活様式が変わるタイミングが本当に苦手なんだよね。体を馴染ませるために相当のエネルギーを消耗してしまうよ。何かしなければならないことがあると“やりたいこと”は後回しになってしまうし…社会は悲しいね…。

 

 

今のうちにいっぱい遊んでおきたいな〜って思っているクリハロくんだけど、人と遊ぶ予定はないみたい。引きこもりが一番楽しいって言うんだから、安上がりでいいね。

 

 まぁ、幸せの形は人それぞれでしょ。自分を幸せにできるのは自分だけっていう世界は、なかなか健康的だと思わない?みんなも誰とも会わなくても幸せになれる確固たる内的世界を作り上げよう。

 今回もいつも通り先月の振り返り今月の抱負を書いていくんだけど、内省を深めすぎた結果、一つの決意をしたから、その発表も最後にするよ。

 

 先月の振り返り

 

 忙しかったと言い訳をしておいたわけだけど、一ヶ月間でこんな適当な記事しか出せなかったのは悔いが残るな。

 

 

 何回言うんだって話だけど、小説やら随筆やらを書くようになって、最近は文章に対する感覚がどんどん鋭敏になっているんだよね。だから、真剣になりすぎず行き当たりばったりで書くというのは気持ちがいいんだ。自分の文章のリズムを無加工なまま観察できると、ちゃんと成長も実感できるしね。

 実は今、この『ハロウィンで仮装すべきもの』を書いてすぐなんだ。なのにも関わらず、面白さをプレゼンすることができない…。あんまり内容がないんだな。

 

 

この記事を書いたのは、名前がクリスマスハロウィンだからっていう使命感でしかなさそうだな…。

 

 散文を書くことには少しずつ慣れてきて、忙しい暮らしの合間でも雑文を書きたいくらいには、文筆という呼吸に気分も落ち着くようになった。けれど、慢心はしたくない。自戒のためにも、定期的に右も左も判らない表現の世界に身を投げてみたくなるんだ。ということで、先月の目標の「韻文という新しい表現に手を伸ばそう」にはちゃんと取り組んだよ。

 

 予告した通り、カクヨム口遊む耽詠ポエムを出した。

 

樅木 霊『口遊む耽詠ポエム』(カクヨム)

 

 

 また、昨日の「31日のおまけ」には、詩の手書き画像も出したよ。

 

 

 『口遊む耽詠ポエム』には、五編の詩だけでなく、ちょうど一年前に出した歌集や

1st Album『カンゼンカフカンゼンカ』の歌詞集、また、完全な新作である俳句集も入れた。俳句集は、これだけでもいつかの「31日のおまけ」用に取っておこうかしらと考えていたけれど、昔に詠んだものも数多く入っているし、今回は色々な種類の韻文の展示場所を作っておくというのが一番の目的だったから出してみたよ。

 

 そう、今回の『口遊む耽詠ポエム』で、僕の言語活動のすべてが「耽シリーズ」として区分できるようになった。僕としては、これが最も嬉しいことなんだ。タクソノミーが大好きなクリハロである。
 

 

 僕は本棚がないと本を一冊も買えないと言ったことがある。Dec25Oct31や樅木 霊の活動に区分できない表現はそもそもする気が起きないんだよ。だからこそ、作品の受け皿を完備させておくことが大切なんだ。これで気兼ねなく、思いついた言葉の表現を如何なる形としてでも出せるようになったね。

 

 先月やったことの発表はこれで終わりだから、今月の抱負に移ってもよいのだけど、その前にポエムに挑戦してみた感想を少し書きたい。
 

 いつも散文を書くときは、自分へ詰問をしているような感覚がするんだよね。ちょっとした心の揺らぎを「なぜそう思ったか?」「どう言い表せるか?」「本質はどこにあるか?」など、重箱の隅を突いて徹底的に自分に尋ねなくてはいけない。もちろん韻文でも、最適な表現を求めるのは細かい作業なのだけど、書き始めるにあたっては、自分や世界を取り巻く風景をぼんやり眺めることも必要だったんだ。

 そこで発見したのが、自分の感受性の無さだった。僕は構造を抜き出して抽象化したり、精緻化して芸術としての意匠を深めたりする言語表現には、多少の自信があるんだ。でも、草原に腰掛けて風の心地よさを感じ取り、一瞬の幸せに身を委ねるような、ありのままの自然的な美を受容できる穏やかな感受性を持ち合わせていない。僕は真や善を差し置いて、美に陶酔するような性格をしているけれど、僕の思う美というのは、理性的に作り出した構造の秩序にあるんだよ。互いに素な二数の最小公倍数のように、無駄なく正確で大きな飛距離を作り出せることがひたすらに美しい。詩情というものに悩んでいると、そうした「美」の違いが判ってきた。同時に、好んで混沌たる草叢に分け入れる無垢な煌めきを持ち合わせていないと、一級の詩人にはなれなさそうだと思えもしたんだ。詩の美しさというのは、やっぱり無機質な言語という媒体で、単純な情報以上に感覚そのものを描写できることにあるからね。そんなに適性はないかもしれないと思うと、多少残念ではあったけれど、自分の作りたいものの輪郭は、一層明瞭になったと見えたよ。僕は僕らしく、散文も韻文も自分が美しいと思えるものを描き続けたいな。
 

 

技術的に上手く書くことは、ある程度の経験で誰でも多少はできるようになるものだけど、そこに自分なりの熱を乗せるのは、自己陶酔とも見えるほどの信念が必要だよね。舞台を選ばず自分らしい美を追求することは、却って誠実な態度にも思えるよ。

 

 今月の抱負

 

 さて、今月の抱負を書いていこう。

 

 詩を書くという方向で内省を深めた成果もあって、自分の表現したい美のテーマもはっきりしてきた。僕は神に成り替わるように、秩序と完備性を徹底的に構築することが好きなんだ。そこで、やっと決意ができたよ。

 

ホームページの運用を開始しよう

 

 元々、Amebaブログを始めたのは、noteではデザイン性をカスタマイズできなかったからというのが大きい。でも、Amebaでも広告は出るし、最下層までスクロールすると別の人のブログが見えるし、どうしても「僕だけの世界」という実感は湧かないんだよね。これは、解決する必要がある課題だと考えていた。

 自分でホームページを作れば解決することは判っているから、一年くらい前に独自ドメインも取得してWordPressも入れたけれど、CSSの設定が難しくてしばらく投げていたんだ。でも、この一ヶ月でちょこちょこ勉強をして、とりあえず処女作の『剪断』は自分のデザインで表示できるようになったよ。
 

 

 縦書きで横スクロールさせる設定が難しかったよ…。一行当たりの文字数が画面サイズに合わせて適当に変わるんじゃなく、ちゃんと文字数を指定して改行されるようにしたのがこだわりかな。一人ひとりに合わせた拡大を許さないってことだから、バリアフリーやノーマライゼーションの考え方とは真逆を行くけれど、すべて僕の意のままに表現できるという実感がある。案の定、これに心が躍るんだよ。

 

 この試作を通して、なんとかブログも書いていけそうだという見通しが立った。これからは少しずつ自分のホームページへと移行していくよ。もう少しでブログの件数もちょうど100を迎える。(「31日のおまけ」は除く)そこで、Amebaブログは今年までとして、大晦日に#100の最後の記事を投稿しようと思うよ。

 

 

今回の記事でもう#97なのに、あと3本しか出さないの!?

 

 年内に今までの記事のうち、ホームページの方にも移植できそうなものを書き直していこうと思っているから、あまり新たなブログは書けそうにないんだよね。12月の抱負と、最後の記事と、何かもう一つって感じで、ちょうどよいと思うよ。もし他に書きたくなったら、ホームページの方に新たな記事も上げれば済むしね。

 

 このアカウントには、そんなにたくさんのフォロワーはいないし、どう考えても面白いわけないのに、公開したら必ず見てくれる人もいて、その人たちには感謝しているよ。Amebaブログというプラットフォームを使うことで、目に留まりやすいということもきっとあるだろうね。けれど、僕はそれらを全部投げ打ってでも、整然と自分らしく生を並べることの方が大切だと思えた。僕のサイトでは、評価やコメントのシステムも実装するつもりはない。デフォルトで付いていたものを引き剥がすという徹底ぶりだよ。承認欲求を持ちようがない環境を作り出すことで、本当の意味で内省に耽ることができると思うんだ。

 

 来年からの素敵な計画に向けて、あと三回のAmebaブログを楽しもう。

 

 

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【31日のおまけ その9】詩

 

 いつも韻文はあまり書いておりませんが、僕の書く散文そのものが詩のようだと言われたことがあります。どういうわけか、それを嬉しく感じましたので、今回は詩を書いてみようと決めました。思えば歌詞を書くことはあります。音楽という制約は分かりやすいですが、単純に詩を書くというのは、どのようなルールを設けるべきか判断つかないものです。

 答えは簡単に出せませんが、それでも挑戦してみることにします。どの詩がよかったかなど、感想いただければ幸いです。

 

 


 

転がる卵

畝る学びの坂道を
転がる卵 彷徨う子ども
割れないように
産まれるように

茹だる熱気の青春に
佇む卵 欲しがる大人
好きに剥かれて
好きに食べられ

外の力を受けとめて
柔軟に生くきみの未来を
優しい殻で守るから
育ったきみは手を広げ
知らないうちに知らせて欲しい

埋める自信の辻褄で
歪な卵 ぼくらの姿
止まれないまま
右へ左へ

内なる力で突き破れ

まるい命は転ばず廻る

 


 


 

単なる

自信があってよいですこと
どこにでもいる神童の

成れの果てを見てしまったら

励ましだって言えてしまうわ

誰しも特別でない人間ですが

騙して価値を作るでしょうか

 

元気があってよいですこと
悩みすらない優等生が

世の果てでやっと躓けば

正しくなって消えてしまうわ

 

誰しも特別でない人間ですが

そのまま愛してくださりますか

単なる物体と運動の連続

単なる数字と図形の関係

単なる選択と記述の問題
単なる点数と評価の枠組

 

実は高得点でよいですこと

採点なしをご希望ですか

優れるためにわざと穿って
異なることをわざと誇って
また、特別になりたがる

単なる数年の恥辱

いつかは分かることでしょうから

よいですこと よいですこと

 


 


 

独りで死んで

即死でした

あなたに出会った瞬間に

僕は死んでしまいました

 

あなたを見つめていたいのです

あなたに見つめてほしいのです

孤独な僕はもう居ませんが

あなたを好きな僕が居ます

 

でも近づかれると胃もたれします

あなたのことは好きですが

あなたのように好きではないです

僕には僕の愛があって

あなたにもまた愛がある

幽霊となりあなたと居ても

きっと崩れてしまうから

自分も大事にしたいのです

 

たまに喧嘩もしたいのです

筋の通らぬ叱責に

腹を立てては落ち込んで

癇癪を起こし咽び泣く

あなたの童心を愛します

一度は死んでいますから

何でも受け止められるのです

同じじゃなくてよいのです

 

ありきたりな不満を言って

頭の悪さを罵って

自分都合で絆を利用し

見るも無惨に暮らしましょう

 

僕らの独りは死んだのです

独りで死んでいくそばで

重なる霊があるのです

簡単に云えば愛なのです

 


 


 

空白

帰り道は宇宙と友だち

青空に隠れた星々と

寄り添うように肩を組む

お前は無口で暗いのに

ぜんぶ飲み込む光を放つ

小石を蹴っていっしょに歩こう
流星と行く長い畦道
まあとりあえず明日も会おう

別れるときに宇宙が言う

脆い寛容に価値はないから

ちゃんと嫌っていいんだよ

拙い憂鬱も意味はあるから
ちゃんと怠けていいんだよ

休もう たまに話そう

そんな余白で目立たせて
やっと世界が見えてくる

 

別れるときに宇宙に言う

 

ぼくにはまだわからない

でもありがとう

お前の気持ちがあったかい
 

広告付きののろま飛行船
鼻歌響くトンネルの灯り
コンクリートの間の綿毛
デパートの不規則タイル

 

宇宙に教えてあげなくちゃ
確かにあった宝物

ぼくも慰めてあげるんだ

きっとみんなも独りぼっちさ
 

 


 

この他の作品も含め、カクヨムにて公開中。

 当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にしていくことで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

 

どうも クリハロ です。

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 Dec25Oct31(クリスマスハロウィン)という名前で活動しているため、そこまで興味はなくても、クリスマスとハロウィンが近づくと意識してしまう。

 もうすぐクリスマスハロウィンであるし、今回はそれをテーマに適当に綴ろう。

 

 

みんな、ハロウィンの予定はあるかな?


 

 現代において、節分に豆を撒くことや、冬至に柚子湯に入るなどの年中行事は、大抵子どもたちのために行われている。伝統文化を知り、情操教育に繋げるのは、もちろん一種の価値があるだろう。同じストーリーを共有することで、一様な民族意識を醸成するのにも一役買っていそうだ。祭の文化はその系譜にあると見える。夏祭りで浴衣の子どもが和太鼓と共に踊っているのは苦々しい反面、愛おしい。

 翻って、大人が祭に真剣に勤しんでいる姿には些か引いてしまう。職人気質の人間がその祭の権威性を主張する様なんて一段と寒々しい。娯楽の一切がその祭しかない辺鄙な集落なのであろうか。

 あらゆる行為のすべてを平等に見ようと努めると、宗教や伝統を特別視しない方がよいという結論を自ずと得るものだから、僕にしてみれば単なる趣味にしか見えない。もちろん自身の趣味と真剣に向き合うことは、有意義でなくとも素晴らしいと考えるため否定こそしないが、他者にまで思想を強制することは許されない。趣味を同じくする者が集まって、自分たちの正当性を熱心に説いたところで、サークル発の起業は凡そ上手くいかない。

 

 その観点で言えば、日本におけるハロウィンはマシだ。

 伝統の継承という大義名分が存在しない。あくまで西洋の収穫祭の名を借りるだけであって、内実、宗教的な印象は削ぎ落とされている。目も当てられない大都会のハロウィンで、仮装とは名ばかりのコスプレに全力を出す若者たちへ、社会は権威性どころか称賛も与えない。大人が行事に尽力することについて、笑い飛ばす方が多数派であるならば安心していられる。

 子どもたちにおいてはどうだろうか。

 幼少期、親の気の迷いで英会話教室へと通わされたことがある。英米人の講師が居て、かなり本格的なハロウィンイベントを企画された。当時の日本ではハロウィンに今ほどの盛り上がりはなかったから、親たちにとっても新鮮であったはずだ。ただ、僕にとっては不愉快の極みであった。玩具屋で買った衣装を着せられて、チープな生地の肌触りに慄き、トリックオアトリートと唱えれば貰える菓子の幼児っぽさに落胆した。徹頭徹尾、不満を叫び散らかし、不貞腐れていたと記憶している。スクリームの仮面がよく似合っていた。

 僕にとってのハロウィンのイメージは、このときに形成された。菓子を遣れば子どもは上機嫌になるだろうという浅はかな魂胆と、それを楽しめる衆愚性には嫌気が差す。しばらくして、街中がコスプレ大会になるという世の中になっても、その印象は深化されるばかりだった。きっと、英会話教室でハイチュウ一つに浮かれていたような子が、渋谷で路上飲酒もする。僕とは相容れない世界の住人だと活き活きと示してくれるのは、ありがたいことだ。

 

 それにしても、ハロウィンの日に人が愚かであることは、元来の目的に立ち返ると正しいようにも思える。

 西洋でのハロウィンは、日本のお盆に近い。ケルトの暦の末日である10月31日には、今世と来世との境界が曖昧になり、死者の魂が家族の元に帰って来るが、悪霊も一緒に訪れるため、人間だと気づかれないように仮装する必要があるとしたのがハロウィンの起こりだ。死者に再会したいという欲求は世界中どこにでもある。そのファンタジーを信じ込むために、年中行事を作り出して、背景に物語を積み上げるのも理解できよう。何かアクションを起こさないと「死者が来た」という実感は得られないという意識もあるのだろうか。
 残念なのは、この「仮装」や「菓子の配布」というパッケージが、降霊という目的を失って日本に渡来したことだ。とはいえ、目的を知らなくても、パッケージを強化させ、なんでもござれのコスプレをして街で騒ぐ者たちは、当たり前に人間らしさを失っているから、悪霊から身を守れてもいる。ハロウィンの仮装として最適なのは、ハロウィンで騒ぐ若者の仮装なのかもしれない。

 

 

みんな、ハロウィンの予定…遠慮しないで言ってね!

 

 ちなみに、僕が悪霊になったとしたら、サッカー部八百屋のおじさんの仮装をしている人には近づかない。彼らと会うと謎のタメ口によってパーソナルスペースを侵食され、生気を吸い取られるのだ。仮装する予定がある人は参考にしてほしい。

 

 

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