この世をば 我が世とぞ思ふ
望月の 欠けたることも
なしと思へば
はいこの歌の作者は誰でしょう?
そうです。藤原道長ですね~。
みなさんよくお勉強していらっしゃる。
この歌は、道長の3人の娘が
それぞれ太皇太后、皇太后、中宮の位に
就き、帝と東宮の外祖父になった道長が
得意の絶頂で詠んだ歌とされています。
まぁ諸説あるので、本当にこの歌を
道長が詠んだのかどうかの真偽は
置いておくとして、
それではこの時の「3人の娘」とは
一体誰のことだったでしょう?
そうです。
彰子(長女:一条天皇の后)
妍子(次女:三条天皇の后)
威子(三女:後一条天皇の后)
でございます。
(母親は源倫子)
そこで、
今回取り上げたいのは次女の妍子様。
(生994年~没1027年)
この方はお姉さんの彰子よりも
6歳年下です。
お姉さんの彰子は12歳で一条天皇の
元に入内しましたが、妍子様もまた年頃に
なって三条天皇(当時は東宮)に入内しました。
時は1010年。妍子様は16歳でしたが、
お姉さんの彰子は22歳で、すでに
一条天皇の皇子を2人産んでおりました。
道長にとっては孫の皇子が将来の
天皇候補なのですから、そりゃあもう
大喜びでした。
それで、一条天皇の次の天皇となるべき
三条天皇(この時はまだ東宮よ)に対しても
娘を入内させようとしたんですねぇ。
そこで選ばれたのが次女の妍子様。
道長としては「もう一手打っておくか!」
という布石だったと思います。
だって三条天皇と妍子様との間に皇子が
生まれればその子は未来の天皇候補
になりますからね。
道長にとって二重にも三重にも将来が
安泰になるわけです。
しかし、ものごとというのは
そううまくはいかないもので
1013年、妍子様がお産みまいらせた
のは皇女様でした。
ご懐妊が判った時、道長は大いに喜び
彰子の時と同じように神社仏閣に
熱心に皇子誕生祈願をしましたが
今回は皇子様ではありませんでした。
道長はこの時、相当不機嫌になった
らしく、藤原実資の日記「小右記」に
その事実が書かれています。
ああ、妍子様のお心の内は
如何ばかりだったでしょう・・・。
「私の使命は三条天皇との間に
皇子を儲ける事だというのは
入内前から嫌と言うほど聞かされていたわ。
だからそのための努力もしました。
でも、生まれる子どもの性別までは
どうする事も出来ないわよ~」
という気持ちだったでしょうか。
生まれたのが女児だったからといって
不機嫌になるなんて、道長も随分と酷だ
と思うのですが、現代の「親」の感覚と
同じように捉えては歴史を正しく理解
出来ないというものでしょう。
三条天皇との関係が決して良いもの
とはいえなかった道長にとって、
ここで皇子の誕生を見る事はどうしても
必要な事だったのです。
それが分かっているからこそ
妍子様のご心痛はかなりのもの
だったと想像されます。
「父君の期待に沿えない私は役立たず。」
「お姉様は立て続けに2人も皇子を
産んだ優等生。
対する私は落第生だわ。」
そんな風に考えても不思議では
ありません。
もともと妍子様は明るい方でした。
記録によると、道長の娘たちの中で
1番の美しさだったそうです。
「妍を競う」という言葉は、
”(女性たちや花々が)美しさを張り合って
いるように見えるさま”
という意味ですが、妍子様の名前の由来は
そこから来ているのかもしれませんね。
当世風の派手な物がお好みであり、
「女房たちの衣装が華美過ぎる!」と
兄の頼通が叱責したという話も。
次女という事もあって「自由で
のびのびしたお方」だったのかな?
夫・三条天皇もそんな妍子様を
寵愛したらしく、夫婦仲は決して
悪くなかったようです。
妍子様が女児を産んで落胆している
時にも「まぁ、女帝という例もあるしさ」
などと言ってなぐさめたとか。
ただ、三条天皇には他の后妃との間に
既に4人もの皇子が誕生していたので
今さら妍子様との間に皇子が生まれなく
ても余裕なわけで・・・
その上、道長と反目し合っている
三条天皇にとっては、生まれたのが
皇女だった事がむしろ好都合だった
とも言えるわけで・・・
だから、三条天皇のなぐさめの言葉も
妍子様にとっては
「何よ!しらじらしいッ!」
って感じだったかもしれないなぁ~
なんて思います。
皇子を出産出来なかった事は、
華やかで明るい性格だった妍子様の
心に影を落としたに違いありません。
しかしながら、三条天皇は
末に生まれたこの皇女を心から
可愛がったそうです。
そして最初はいけずだった道長も、
禎子内親王と名付けられたこの皇女を
ファミリーの一員として大切に遇した
事がのちの記録で判明しています。
禎子内親王は、やがて彰子の
産んだ敦良親王(後朱雀天皇)に
入内するのですが、それは妹の妍子様
に対する彰子の思いやりだったのかも
しれません。
妍子様は娘の入内を見届けて
半年後にこの世を去ります。
まだ33歳という若さでした。
権門の家に生まれ、何一つ不自由無く
育ち、入内するまでの彼女の人生は
それはそれは光り輝いていた事で
しょう。
姉上のように自分も皇子を授かって
お役に立つのだ!という意欲に溢れて
いたのではないでしょうか。
生まれて来たのが男か女か、
ただそれだけの違いがこんなにも
命運を分けるとは・・・
この時代は恐ろしいですね。
しかし、しかし!禎子内親王が
お産みまいらせた皇子こそ、
のちの後三条天皇であり、
藤原氏の摂関政治の終焉に
楔を打ち込む存在となるのですから
何とも歴史の皮肉としか言いようが
ありません。
草葉の陰で、妍子様はこれを
どうご覧になったでしょうか?
後朱雀天皇には妍子様の兄弟たちが
娘を次々に入内させたけれども
誰ひとりとして皇子には恵まれず、
結局我が娘の禎子内親王が産んだ
皇子が即位して皇統を継いだ事を
喜んだのか?
それとも、自分が摂関家の姫として
皇子を産む事が出来なかった
ばかりか、その娘が摂関家の土台を
大きく揺るがす天皇を誕生させて
しまった事を悲しんだのか?
妍子様のお気持ちは一体
どのようだったのでしょうね。