残酷さへの理解 | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

※この記事はショッキングな内容を取り扱います。

 

今朝、Quoraを見ていたら、その回答に「隣の家の少女」(ジャック・ケッチャム 著)という作品の話があった。この作品はインディアナの犯罪史上で最も恐ろしい犯罪と表された「シルヴィア・ライケンス殺人事件」が元となっており、その内容は少女が監禁されてから虐待死するところまでを取り扱っているようだ。

 

わたしが読んだのは作品ではなく事件の記事の方であるが、この手の事件の恐ろしさは被害者に与えられる生々しい苦痛の数々である。現実は小説より奇なりとは言うが、この手の内容を扱うとその内容が常軌を逸しているため、作品の芸術性はまず死ぬだろうと思う。また、何が恐ろしいかと問われれば、意外と人間は簡単には死ねないこと。おそらく、こういった危機に瀕すると、返って生命力が強くなっていまうのではないかと思う。そういう意味では、身体の傷よりも心の傷の方が深刻だという昨今の通説は正しいものだと感じる。

 

「シルヴィア・ライケンス殺人事件」の特徴は、被害者が強姦されていないところだろう(小説版ではされているらしい)。というか、彼女の痛ましい姿を見たら勃つものも勃たないのが普通で、本来は何もおかしな話ではない。……というのはたぶん、わたしの感覚がそうであるだけで、実際にはだいたい強姦はセットである。性欲と暴行(および殺人)というのは、そんなに遠い関係では無い。

 

監禁系の事件はマインドコントロールとセットになることが多く、その内容を読んでいると登場人物が全員頭おかしいんじゃないかと思えてくることが多い。これが小説なら突飛でつまらないだけで済むのだが、現実にあるから始末が悪い。

 

監禁事件で似たようなケースで言えば、未成年グループによる凶悪犯罪の代表格である「女子高生コンクリート詰め殺人事件」がある。

これは未成年の残酷さもさることながら、被害者の女子高生に対する世間の偏見の残酷さも凄まじい。思うに、普通にしていればそんな事件に巻き込まれないし、巻き込まれたくないという心理でもあるのではないだろうか?

 

そして、レジェンド・オブ・監禁事件と言えば、「北九州監禁殺人事件」だろう。

1人の真性サイコパスがマインドコントロールを駆使して成立させた凶悪犯罪で、その内容はおそらく説明しても伝わらない。わたしは何日かに渡ってようやく流れを理解したものの、理解に苦しむ内容のため頭が痛くなったことを覚えている。

 

こういった事件の背景にあるのは、人間の流されやすさであるとわたしは思う。

おそらく、この手の事件は、主犯格の人間が天才的な行動力と残忍さを持ち合わせてはいるものの、その取り巻きは(心理的に臆病な傾向はあるかもしれないが)概ね普通の人であると思う。

つまり、誰であっても加害者になる可能性は十分あるのである。そして、環境には抗うことはできない。

 

残酷さへの理解とは、残酷なものを残酷だと認識することである。

残酷なことを残酷だと思うことができれば、それらの行為には当然ためらいが生まれるはずである。しかし、その理解が浅いと、思考停止に陥って上記の事件の共犯者に仕立てられてもおかしくはない。人というのは、案外頭を使わなくても身体が動くものである。そして、その行動はだいたい自分が楽な方を選ぶ。上記の事件で例えれば、加害者に牙を向けるよりは素直に従った方が楽だと共犯者どころか被害者でさえそうやって行動している節がある。色々な凶悪犯罪を知って人間の残酷さと流されやすさを学んでおくことは、身を守る上で非常に大切なことであるとわたしは思う。