子ども ペットみたい | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

常々思っていたことであるが、子どもをペットのような視点で見る気持ち、あるいはペットを子どものように見る気持ちが、人にはあるような気がしてならない。

代表的な例としては、知り合いの子どもを抱っこしたがり、子どもの気持ちを尊重しないところだろう。もちろん、この場面には「子ども=ペット」のような安直な感情はあり得ないし、子どもを抱っこする側も本能が刺激されるというところはあるだろう。

しかし、わたしにはどうにも子どもとペットの垣根というのがなくなりつつあるような気がしてならない。なんというか、子どもを育てるという本能を慰めるためにペットを飼う、という人の行動があるような気がする。

 

ペットのメリットはというと、わたしが思うに「人権がないこと」と「言葉が通じないこと」である。人間の子どもは一個人であるため、思ったように関われないことも多いが、ペットには自分の好みを押し付けることができる。また、言葉が通じないとわかっているため、「こうして欲しい」という期待も湧き辛いだろう。今の保育では、子どもに期待せずに期待しているように接することが求められるが、期待しないというのは中々できることではないし、自分の子どもにはまずできないだろう。むしろ、期待しない親がいたらその方が心配である。

 

あと、子どもが独り立ちしたらペットを飼うケースもある。

これは世話焼きの親に多いケースだと思うが、こういった親は自分の子どもの世話を焼き過ぎていることが多いと思う。具体的には、独り立ちできない子どもを量産している可能性がある。子どもやペットを利用して、自分の庇護欲や存在意義を見出そうという心理があるような気がする。

 

また、若い保護者が我が子とペットのように関わる場合だが、これはその保護者が人間の子どもと関わった経験が少ないから、ペットを飼っていた頃の経験をもとに子育てしているのではないだろうか?

まあ、これに関しては特別悪いこととは言えないし、仕方がないことでもある。問題は、人間はペットではないというところであるが。

 

わたしがこんなことを考える理由は、おそらく子どもがいることのメリットを考えるからだろう。昔で言えば、子どもは家の跡継ぎや労働力としての明確な役割があったが、現代はそれほど厳格ではない。わたしも自分の子どもが欲しいとは思っているが、それは本能というよりも、結婚して子どもを作らなくてはいけないという慣習に染まっているからだと思う。むしろ、子どもがいることのデメリットが大きくなっている。お金が掛かる上、その子の稼いだものが自分に還元されるとも限らず、元を取れるかもわからない。そんな中で子どもに具体的なメリットを求めるとなると、そのペットのような愛らしさが残ってしまうのではないだろうか?

 

人間を動物とすれば、子どもを作るのに大切なのは子どもを産みたいと思う女性の本能だとわたしは思う(男は常に性欲まみれなので問題なし)。しかし、現代社会の環境がこの本能と矛盾するため、子どもを作るための言い訳を求める。それが、子どもは(ペット様に?)可愛いから欲しいという理屈だ。本当は言語化できない本能という要素を、自分の理性で考えられる要素に置き換えるわけである。これは良し悪しではなく、本能に逆らえない人の性だ。本能を満たすために、ペット用に可愛らしい存在という自分が理解しやすい対象に置き換え、子どもを作る方向へ無意識にに動かされるのではないだろうか?

 

別に子どもをペットのように扱うのが悪いとか、ペットを子どものように扱うことが良いとか、そういう話ではない。

ただ、子どもという存在をペットという概念に重ねて理解している人が、案外多いのではないかと思っただけである。