秋葉原無差別殺傷事件 俺と同じ悩みの奴なんか居ない | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

 

 

この本を1日1ページずつ読んでいるが、気になる名言として、加藤智大元死刑囚の言葉があった。2008年頃にネット掲示板に書いた言葉らしい。

同じ悩みを持った人同士なら、色々共感できるはず。

俺と同じ悩みの奴なんか居ない。


幼い頃から母親に厳しく育てられ、幼少期から学習塾に通い、友人と遊ぶことを強く規制。

小中学校の成績は良く、スポーツも万能。

県下一の進学校に進学を果たしたが、そこで躓いたらしい。

正規雇用、非正規雇用を転々とし、会社への不満を無断欠勤の形で示していたようだ。

 

彼の経歴を見てみると、一見転落者のテンプレートにも見える。

個性的な点としては、「人間関係で孤立していたわけではないこと」、「子どもの頃の育て方について、母親が謝罪していること」の2点。

ただ、周囲の人間や母親よりも、ネット掲示板(の仲間、あるいはその環境)に居場所を求めていたという印象が強く残る。

 

個性を感じる点としては、wikipediaに載っている以下の言葉も印象に残る。

本気で自分を「負け組」だと考える人のことは全く理解できません。また、自分の努力不足を棚に上げて「勝ち組」を逆恨みするその腐った根性は不快です

若者が希望を持てる社会、などと言われたりしているようですが、意味不明です。何故そうやって社会のせいにするのか、全く理解できません。あくまでも、私の状況です。社会の環境ではありません。勝手に置き換えないでください

この辺りからわたしが感じられるのは、加藤智大元死刑囚の強すぎる自我である。

冒頭の名言に戻れば、共感力が欠如している故の自我の強さなのかもしれない。

 

共感力がどこで養われるのか、わたしは知らない。

保育的には幼少期の他人との関わりなのだが、正直なところあまりピンと来ていない。

そもそも、価値観が細分化した現代社会では、本当の共感なんてほとんどないのではないだろうか?

 

この事件の後に、ネット掲示板では加藤智大元死刑囚を称える動きがあったらしい。

この動きは、わたしも安倍元総理の銃撃事件の後に似たようなものを見たのでなんとなくわかる。

後日、岸田総理を狙った模倣犯が出たところまで全く同じだと思う。

 

これらは、妄想はするが何も実行できない自分を棚に上げ、実行犯を称えることであたかもその仲間として革命に参加したかのような愉悦に浸ることができたのではないか?と思う。

この辺りを見るに、加藤智大元死刑囚はネット掲示板に入り浸ってはいたが、そこの住民にも共感はしていなかったし、されてもいなかったのだろう。

 

加藤智大元死刑囚の特筆すべき点は、その実行力・行動力であると思う。

事件自体もそうだが、会社への不満を擬似的なストライキで示すなど、有言実行する強さが感じられる。行動の結果から利益を計算する点と見通しの甘さは見受けられるが、短絡的ではあっても最後まで実行するエネルギーがある点において、ただ愚痴を吐くだけの有象無象とは一線を画すると言える。もっとも、後者の方が周りへの被害が少ないという点で優れているというのは皮肉であるが。

 

おそらく、加藤智大元死刑囚のケースは、わたしが研究するべき「発達性トラウマ」と無関係ではない。今後、わたしが発達性トラウマを研究する時に、その一例として挙げることがあるだろうと思う。