我慢は美徳か手段か目的か | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

わたしが常々苦手な人の中に「我慢は美徳」という価値観を持っている人がいる。

まあ、それ自体は悪いことではないし、個人の自由だと思う。それが問題になるのは得てしてそれを他人に押しつけてくることであるし……。

 

正直、我慢は美徳という価値観をわたし自身がしっかりと理解できているかと言われると大変怪しい。

わたしにとっては、我慢というのは嵐が過ぎ去るのを待つようなもので、このまま止まっていればいずれ晴れるだろうという期待を持って行うものである。つまり、一番早く晴れた空のもとに行ける手段としての我慢である。

 

ただ、美徳として我慢している人は、そんな現金な考えではなく、もう職人気質としての我慢なのではないか?と思うことが多々ある。なんなら、常に我慢してないとかえって落ち着かないのではないか?とすら思うことがある。具体的に例えると、普段家でぐーたらしてる旦那と、家ではグチグチ外では悪グチの女性がいるとする。この女性にとって旦那は我慢を強いてくる存在であるわけだが、旦那がいなくなると我慢する必要がなくなり、すっきりさっぱりするだろうか?たぶん、謎の喪失感が生まれるだけではないかと思う。我慢という行為が自分のアイデンティティに含まれてしまっているのではないだろうか?

 

また、体調不良を我慢して働く人がいる。わたしなんかは組織内での立場を危ぶんでそうするだけだが、我慢が美徳の人達は、その逆境を楽しんでいるのではないか?とすら思う。我慢は英語でenduranceというらしいので、言うなれば「エンドランス・ジャンキー」。そういう人から「どうして我慢できないの!?」と言われることは、「どうして結婚しないの!?」と問われることくらいの理不尽に感じることだろう。