今日は保育園の送別会があった。
わたしは退職者側としての参加だったが、貰えるものが余りに多い……。
花束と花籠、洋菓子、額縁に入れられた寄せ書き、ギフトカード3万円分、その他個人的な餞別……。
俺は園長先生だったのか?と錯覚してしまう程色々なものを頂いた。1年しか居なかった足手まといにこの厚遇。これが本当の恐縮なのだと実感した。
送別会では退職者の一言のようなコーナーがあるが、それも中々の雰囲気だった。
涙声でコメントする他の退職者。それに続くわたし。
わたしは事前にある程度言葉を用意しておいたので、それをそつなく言って角を立てずに終えようと思っていた。しかし、その言葉を話していると、わたしの中に謎の選択肢が生まれた。
ここで涙声を出せば有利になる!
これまでの自分にはあり得なかった選択肢である。しかも、それを考えた瞬間に、自分の声が鼻に響くのを感じた。その気になれば泣ける体勢が整ったのである。その事実に、わたしは驚愕した。
おそらく、これが空気を読むとか共感するとか、そういう類いの力なのだと思った。要するに、場に呑まれたのだと思う。証明しようも無いが、あの場にいた職員たちの見えない総意が、わたしに職員たちを感動させるような語りをするように仕向けられたのではないだろうか?とにかく、不思議な体験だったことは間違いない。
この体験から分かったことは、この場にいる保育士のほとんどは、本当にその場の空気に合わせて生きられるということである。それが、福祉の現場を生き抜くために必要な臨機応変さなのだと感じた。また、わたしにはとても真似できない人間関係の調整能力でもある。
それにしても、保育士というのは一時の感動のために色々な仕事をするものだなと感心する。
寄せ書き以外にも、子どもたちからの贈り物まで作り、実に時間を掛けている。しかもわたしは、それらについて愚痴を吐きながら取り組む保育士の姿も見ている。その姿は、まさしく本音と建前のプロだろう。そして、そんなものであっても人を感動させる力がある。つまり、福祉の従事者とは、場の空気や小道具、ノンバーバルコミュニケーションや自分の感情まで制御して、感動を作り出す職人なのだとわたしは思った。
人として高度な技術を持っていることは間違いないが、やはり総合的に見ると宗教に近い何かを感じる。これが女性の計算力であるというのなら、世の男女がわかり合えないのも頷ける。