昨晩ふと「わたしには"自分"がないのではないか?」と思った。
やりたいことはあるが、それをやらなくても死ぬわけではない。
いつも他人に怯えている。
頑張る? 何のために? 踏ん張るための"自分"がないのに?
そう思い、インターネットで「自分がない」について検索したところ、以下の記事に出会った。
行動力はあるが"自分"がない
(みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書))
これはわたしのことでは? と思った。
客観的な評価として、9年勤めていた会社を辞めて短大に通って保育士資格を取って働く人間を行動力がないとは言わないだろう。
この本は今すぐ必要だと思ったため、すぐに近所の本屋で購入。
一日で読破した。
感想としては、わたしのこの1年間の自己分析の集大成のような本だったと言ってさしつかえない。
わたしが上手く言語化できなかったことまでしっかりと書いてあり、ブレイクスルーとまではいかないが、わたしの積み上げてきた泥が、無意味な土台ではなかったと感じさせてくれる本だった。
また、自分よりも明確に先に進んでいた部分として、P236に「自分を"開く"のではなく、しっかりと"閉じる"ことを意識する」というものがあった。
わたしは去年、明確に社会不信に陥ったことで、擬似的にこの考え方を実行できるようになった。
それまでのわたしは、自分の考えをストレートに表明していたし、周りの人がそれをしないことが意味不明で仕方がなかった。
今もその本質は分からないが、たぶん無意識的に他人のことを信用していないのだと思う。わたしは意識しないと他人を信じてしまうが、普通の人は無意識に他人を信じていない。無意識的には他人を信じていないのに、意識的に他人を信じているから、裏切られた時にキレるダブスタが成立する、というのが今のわたしの中での仮説である。でないと、説明がつかない事柄が多いと感じる。
わたしのブログ内を【社会不信】で検索したところ、以下の記事があった。
記事の内容は、本書が取り扱っていたトラウマについて肯定できる内容だろう。
加えて、以下の記事も明確にわたしの中にあるトラウマを描写している。
本書を読んでいて安心したことは、わたし自身の判断が間違っていないことを肯定できたことである。
そいて、わたしが保育の道を志したのは、ただの"自分"探しであったことがはっきりした。
今抱えている転職活動が全て失敗したら、4月まで活動を辞めようと思う。
"自分"が安定しなければ、どの道先は無い。
諦めることの大切さを思い出さなくてはいけない。
元々、全てを手に入れることは不可能なのだから。